㈱印傳屋 上原勇七の出澤忠利さんをお招きした特別セミナー、開催しました!
これまでさまざまな地場産業をとりあげたシリーズとして
ワイン(丸藤葡萄酒工業㈱)、ニット(近藤ニット㈱)、和紙(㈱大直)と開催してきた、
ヤマナシ発の先進ブランドに学ぶブランディングセミナー。
その第4弾として今回、㈱印傳屋 上原勇七の出澤忠利さんを招いたセミナー、
「印傳屋のブランディング」を開催しました。
出澤さんは「印傳屋 上原勇七」で長年ブランディングに携わってきたいわば”番頭役”。
印伝が日本を代表する地場産業に成長するまでの数十年間、
ブランド価値を高めるためのさまざまな取り組みをリードしてこられました。
このセミナーではそのエッセンスを織物産地へ向けて、
さまざまな角度から届けてくれています。
歴史をひもといてみると、「印傳屋 上原勇七」の創業はなんと1582年。
4世紀以上も昔です。
ときは戦国時代、甲冑のパーツとして発達した革細工が「印伝」のルーツだそうです。
いわば軍需産業だった印伝が、江戸時代に入って巾着や煙草入れなど、
平和産業として進化していったといわれています。
ヤマナシ織物産地のルーツ「甲斐絹」、そのまたさらにルーツは
戦国時代の南蛮貿易でもたらされたと言われています。
そのルーツの時代は共通していますが、その頃から同一の事業者として
継続し続けているというのはすごいことですね!
セミナーの始め、出澤さんが示してくれたのは、
「ブランド」の語源となった
「焼印(英:brand ブランド)」を押された革。
「ブランドとは何か?」という話ではよくネタとして登場しますが、
現物を見たのは初めてです。
さすがは革細工のブランドですね。
印傳屋のブランディングとはいったい何なのか?
これに対する出澤さんの答えのひとつは、こうでした。
「ブランドとは、『信頼・信用』です。」
『信頼・信用』。
シンプルで、当然のようにも思える言葉です。
しかし、出澤さんから 聞くと深みがあります。
それを補足するエピソードのひとつには、こんな話がありました。
「印傳屋が買い物をするときには、会社のある町内で買います。
同じ町内になければ同じ市内、それでもなければ同じ県内。
ふだんから周囲の人のためになるように行動していると、
なにかがあった時(たとえば悪い風評被害があったときなど)にも、その人たちは
『いや、印傳屋はそんなことをする会社じゃない!』
とバックアップしてくれるんです。」
買い物という、
一見、ブランドづくりと関係がないような行動でも、
それは「信頼・信用」を得るためと考えると、
まったく違う意味を帯びてきます。
すべての行為が、ブランディングにつながっているんですね。
そしてもうひとつ、毎年1回出している新聞広告、「きょうは、十五夜です」シリーズ。
地元、山梨日日新聞へ9月に掲載されるこの広告は、もう25年間も続いています。
「この広告は、商品を買ってもらうための広告ではありません。
すでに印傳屋の商品を持っているお客様に、
持っていてよかったと思ってもらうための情報発信です。
いま買って持ってくれている人が一番大事なんです。」
山梨の秋の風物詩とさえいえるくらい定着したこの広告は、
山梨広告賞も受賞しています。
昭和56年、㈱印傳屋 上原勇七は初の県外直営店を
東京、青山に出店します。
資本金に倍するようなこの大規模な投資に、まわりからは「これで印傳屋つぶれるよ」
との声さえ聞こえるほどのチャレンジでした。
「なぜ青山店を作ったのか。
売れる自信があるから出した、儲かるから出した、のではありません。
当時、甲府のお店に来ていただいているお客様のなかで
最も多かったのが東京の方でした。
そこで、お客様の利便性を考えて、
お客様の近くでお店を出すことにしたのです。
青山店ができて、お客様はたいへん安心してくれるんです。
印伝は、5年、10年とお使いいただくもの。
商品に何かあったときに、『いつでもお持ちください』 と言える場所を作ることができた。
この安心を、直営店でご提供することができたのです」
「名古屋御園店ができたとき、オープニングに来て下さったお客様が
『これで息子に甲府まで運転をお願いしなくてもよくなった』
と喜んでおっしゃられた。
これでもう店を出した甲斐があった!と本当に思いました」
どこまでお客様の立場で考えられるか、
これを積み重ねることで、その商品、企業を愛してくれるお客様が
増えていくのでしょう。
また、㈱印傳屋 上原勇七は、「古楽」の分野では日本で唯一のコンクール、
国際古楽コンクール<山梨>の協賛を長年続けています。
このコンクールでは、かつてカウンター・テナーの米良美一さんが受賞し、
それがきっかけで宮崎駿監督の目に止まって「もののけ姫」に抜擢されたとか。
ただ1社の協賛にも関わらず、ほとんど表に名前を出さずに協賛し続けている姿勢からは
「陰徳を積む」という言葉(を昔マンガで知ったこと)を思い出します。
他にも㈱印傳屋 上原勇七は、中学生のスピーチコンテスト、囲碁大会などにも協賛をしつつ、
「表に出すのは(印傳屋に)あわない」 とのことで陰からのサポートを続けているそうです。
本当の「信頼、信用」というものを得るために必要なことは、会社も人も同じのようですね。
出澤さんは、「情報を発信し続けること」が
ブランドにとってとても重要だ、と説明されました。
一方で、このような隠れた協賛活動をされているお話しを伺うと、
情報発信とは、ただ伝えたいメッセージをそのまま発信することだけではなくて、
「後ろ姿」を見せるような、無言の情報も含まれているのかもしれない、と思いました。
セミナー後半は、鈴木淳客員研究員がコーディネーターとなって
ハタヤさんたちからの質問、意見を出澤さんに答えていただきました。
様々な質疑が交わされるなかで印象的だったのは、
鈴木客員研究員がつねづね口にしてきた
「ブランドづくりは、その会社のファンを育てること」
という 哲学が、出澤さんのお話しの根底に流れていることでした。
「印伝」が「甲州土産」という認知が主であった時代から、
世界的なブランドに育つまでのあいだには
想像もつかないような幾つものステップがあり、チャレンジがあったことでしょう。
その長い道を乗り越えてきた背景にあったのは、
㈱印傳屋 上原勇七の商品を愛してくれる「お客様」のことをいかに大事に考えるか、
ということだったのではないでしょうか。
ブランディングという言葉もない時代から
出澤さんが歩んでこられたブランド作りの道が
言葉は違えども、
デザイナーズビレッジやヤマナシ産地で生まれたばかりのブランドに
鈴木客員研究員の教えてくれていたことにリンクしていた。
それがとても印象的なセミナーでした。
奇しくもこの日は、鈴木淳先生は、客員研究員としての3年間の最後の日となりました。
思い返すと、鈴木淳先生に来てもらうずっと前、
「ブランドを作る」とは、
商品を作ってブランド名を考え、ロゴをデザインすること、
という風にさえ思っていたこともありました。
しかし鈴木先生が台東デザイナーズビレッジで、
無名の小さなブランドを大きく育てるために
どんなに知恵を絞り、時間をかけて対話し、
困難やトラブルをクリエイターと一緒に克服し、
苦労を重ねてきているか。
クリエイターが商品やブランドの魅力を伝え、
自社のファンになってくれるお客様と出会い、
関係を深めていくためにどれだけの労力と時間が必要か…。
その姿を拝見して学ぶなかで、
とても簡単に「ブランド作りました」なんて言えないことを
実感することができました。
資金のない小さな事業者がブランドを育てていくためには、
日々の事業活動の一つ一つに
「何が目的なのか」
「どんな成果が出れば良しとするのか」
をシビアに見極めていく必要があります。
とかく建前の理屈が通っていれば良しとすることの多い社会のなかで、
目的と結果にこだわる鈴木先生の厳しい視線は
私たちシケンジョ職員にも大きな刺激になりました。
この数年間の教えがあったからこそ、
この日のセミナーの内容、
出澤さんの語ることばの背後に隠された大きな部分を
感じ取ることができるようになったのかもしれません。
台東デザイナーズビレッジの入居は3年が限度で、
入居者はその間に成長し、卒業していかなくてはなりません。
鈴木先生は、この3年間、ヤマナシ産地の成長期を見ることができたと
言ってくれました。
しかしヤマナシ産地、そしてシケンジョは3年間で
どれだけ成長することができたのか? 無事に卒業できたのか?
それは、今後の活動から見えてくるのだと思います。
ヤマナシ産地、そしてシケンジョにぜひ今後もご注目ください。
出澤さん、節目の時にふさわしいセミナーをありがとうございました。
そして鈴木淳先生、長い間ありがとうございました!
(五十嵐)