2024年2月27日火曜日

『消しゴムとカッター』 ~BEAT WEAVE 開催によせて~

エキュート立川で2012年に始まった織物工場グループによるBtoCプロジェクト、ヤマナシハタオリトラベルの最新バージョンといえるイベントショップが、2024年3月7-10日古巣の立川駅に隣接したショッピングモール GREEN SPRINGSで開催されます。

その名も"BEAT WEAVE"


BEAT WEAVE”BEAT”は、第二次大戦後のアメリカで一世を風靡した文学運動やその担い手をさすビート・ジェネレーションに由来するものだそうです。

BEAT WEAVEは「アート」や「文学」、「⾔葉」などさまざまな視点から織物産業を切り取る編集型のマーケットイベントとして企画されています。

店内には織物や産地に関わる詩人の言葉が紹介され、また機屋さんがおススメする本を展示販売するコーナーも設けられるなど、これまでと違った雰囲気になりそうです。

そうした「言葉」に関連して、シケンジョテキで連載中の「文学の中の甲斐絹」シリーズを核とした読み物として「パンクで愛のある織物コラム」を、というオファーがあり、BEAT WEAVEで配られる冊子に掲載するテキストとして『消しゴムとカッター』と題したコラムをシケンジョテキで担当させていただきました。

注)画像はBEAT WEAVE冊子とは関係なくシケンジョテキ用に作成したものです。

忘れかけられていた文学の中の甲斐絹を入口に、織物工場が
BEAT WEAVEのような活動をする意義について書いたつもりです。

以下、そのテキストを主催者の許可を得て転載しご紹介します。


消しゴムとカッター


宇宙は膨張している。

そんなことは今では小学生でも知っているけれど、百年前までは違った。

同じ状態が永遠に続く定常宇宙論がそれまでずっと信じられていたのだ。

ではどうして膨張していることに気付けたのかというと、周囲の銀河を観測した結果、互いに遠ざかっていることが分ったからだ。

そこから時間軸を逆向きに演繹して生まれたのがビッグバン宇宙論である。

しかし、今から約900億年も経過すると、膨張の加速によって「周囲の銀河」はすべて観測可能な範囲の外に出て見えなくなってしまうという。

もしそのはるか遠い未来に文明が生まれても、彼らはかつて周囲に無数にあった銀河の存在はもちろん、宇宙が膨張していること、ビッグバンのことも知るすべを持たない。

すでに宇宙の歴史は消去され、手が届かなくなってしまうのだ*1

「忘れようにも思い出せない」と鳳啓助師匠が言ったように(のちにこれをバカボンのパパが引用した)*2、そもそも知らなかった過去は思い出すことができない。

じつは私たちの身の回りにはそういう形而上学的な消しゴムが存在し、忘れたことさえ忘れられてしまった過去がたくさんある*3

それを思い知らされたのが、2023年の夏のことだった。

インターネットの青空文庫を全文検索可能なAozoraseaerch*4というサービスを使って、山梨県の郡内織物産地のルーツである「甲斐絹(かいき)」について調べたところ、これまで「甲斐絹」の登場する文学作品はわずか数例しか知られていなかったのに、それが一気に55件と約十倍に膨れ上がったのだ*5

他に見つかったものを含めると、甲斐絹の登場回数は18881948年の60年間で64例に上り、新たに発見された作品の著者には太宰治、谷崎潤一郎、正岡子規、石川啄木、北原白秋など、そうそうたる文豪・詩人の名が連なる*6

それらの作品のなかでは甲斐絹という固有名詞が説明もなしに登場しており、それは大多数の読者がその言葉をすでに知っていたことを示している。

それが60年間も継続していたとすると、甲斐絹は何世代かにわたって日本国民の多くが知っている言葉でありつづけたということだろう。

現代人にとっては「甲斐絹」という単語がもはや見知らぬものだとは分かっていたが*7、社会全体からこれほど壮大に忘却されていたのだということを初めて知って驚かされた。

甲斐絹の忘却をもたらした消しゴムとは、私たちの世代交代がその一つだと考えられる。

ありきたりにも思えるが、その力は強大だ。

甲斐絹が隆盛した明治~大正時代までの時間距離は、およそ四世代分にあたる。

それは新生児から高祖父母までほどの距離だ*8

たった四世代分さかのぼるだけとはいえ、彼らとその時代について私たちの知っていることは極端に減ってしまう。

たとえば高祖父母まで遡らずとも、自分の曾祖父母の名前を言える人がどれだけいるだろうか。

まるで銀河が観測可能な範囲を超えて遠ざかってしまったのと同じように、彼らの人生のほとんどすべては、文学の中の甲斐絹のように、思い出しようのない忘却の彼方にある*9

それはもちろん甲斐絹だけでない。

織物というものは常に私たちの身近にありすぎるせいで、かえって忘れ去られてしまったことが非常に多い。

昭和40年代までは洋服は買うものではなく仕立てるものだったこと、かつて百貨店はみな呉服店だったこと、近代以前にはどの集落でも織物を織っていたこと、暮らしのかなりの時間が糸を作ることに費やされていた時代のことを*10

私たちはどこにでもあったはずの織物の風景を忘却したまま、毎日衣服を着て暮らしている。

このように時間軸上の消しゴムによって失われるものがあるのと同じに、水平方向に私たちに喪失をもたらすカッターがある。

それはコストをカットし、納期を短縮するために開発された生産と流通に関わる文明の諸々である。

そのカッターは時間や手間数をカットするだけでなく、私たちを作る人と使う人に分け、さらに作る人を、紡ぐ人、撚る人、染める人、織る人、縫う人などへと細分化した。

その結果、私たちはみな部分的な存在となった*11

私たちが店頭で出会うお気に入りの商品は、もはやどこの誰が作ったものか分からないのが当たり前になっているし、そうでなかった時のことを思い出すことも難しい。

人類の歴史上、これがどれほど異様なことなのかさえ、きっともう私たちには分からなくなっている。

私たちがそうしたカッターを手にしたまま未来へ進まなくてはならないのは、仕方のないことなのかもしれない。

しかしたとえ私たちが分割された存在であっても、その前のことを忘れてさえいなければ、もと来た道をたどることができる。

恐ろしいのは、「忘れようにも思い出せない」ことだ。

映画『千と千尋の神隠し』*12で、ハクが自分の本当の名前を思い出せないことで湯婆婆のもとから逃れられずにいたように、私たちは自分の本当の名前を忘れてしまってはいないだろうか。

そんな名前があったことさえ忘却していないだろうか。

私たちはかつてどんな存在だったのか、分割される前の私たちにはどんな時間が流れていたのか、どんな風景が見えていたのか、そこにどんな豊かさがあったのか。

忘れてはいけないことを思い出しながら前へ進むために、ここで打ち鳴らされるのは織機のハタ音だ。

緯糸を経糸のあいだに織り込んだあと、適切な密度になるよう緯糸を生地側に押し込む部品は、英語でBEATER*13とも呼ばれる。

織機のリズムは、人類の原初の暮らしの中で鳴りはじめた最古のBEATのひとつでもある。

富士山の麓に、その音を絶やすことなく響かせている街がある。

そこで作りながら暮らす人々がいる。

そこでは、消しゴムとカッターが手を携えて忘却へと進むこの宇宙で、記憶を未来に伝えるためのBEATが刻まれている。


・ ・ ・ ・ ・

参考文献等

*1 『宇宙に「終わり」はあるのか』吉田伸夫,講談社 (2017/2/15) 

銀河後退を示す赤方偏移と同様にビッグバンを支持する観測的証拠である宇宙背景放射も、その頃には放射強度が現在の一兆分の一に弱まっており、発見や観測が事実上不可能になってしまう。

*2 赤塚不二夫公認サイトこれでいいのだ!!/赤塚まんがの「どうしてですか?」88+α個!! https://www.koredeiinoda.net/dousite88

*3 『チェンソーマン』第10巻 藤本タツキ,集英社(2021/1/4)では、チェンソーの悪魔によって歴史や記憶から存在が消去されてしまい、誰も思い出すことができなくなってしまっているものがあることをマキマが指摘する秀逸な描写が思い起こされる。

*4  Aozorasearch 青空文庫全文検索 https://myokoym.net/aozorasearch/

*5 これを甲斐絹ビッグバンと呼びたいくらいである。

*6 ブログ「シケンジョテキ」文学の中の甲斐絹 ①文人たちが書いた甲斐絹 

名前を挙げた作家の作品は次のとおり。

太宰治『新樹の言葉』(1939 昭和14)/芥川龍之介『戯作三昧』(1917 大正6)/谷崎潤一郎『少年』(1911 明治44)、『秘密』(1911 明治44)、『蓼喰う虫』(1928 昭和3)/正岡子規『病牀六尺』(1902 明治35)/石川啄木『天鵞絨』(1908 明治41)/北原白秋『思ひ出 抒情小曲集』(1911 明治44)、『桐の花』(1913 大正2

この中で脚注でも掲載できる素晴らしい作品をひとつ紹介したい。北原白秋『桐の花』のこのような短歌である。「鳴りひびく 心甲斐絹を着るごとし さなりさやさや かかる夕に」

*7 甲斐絹の生産は統計上、太平洋戦争を境に消失している。山梨ではその後、甲斐絹の技術をもとに様々な用途の織物を生産し発展した。

*8 ひと世代を25年として、新生児の誕生から高祖母が生まれた年までを100年として計算した。

*9 そのせいで、せいぜい祖父母や父母の時代に行われていたことを日本古来の伝統だと思い込んだり、本来あるべき姿かのように勘違いする人が多いのは周知の事実である。

*10 『織物の文明史』ヴァージニア・ポストレル/ワゴナー理恵子:訳,青土社(2022/12

機械式の紡糸機が一般化する前のルネッサンス期のフィレンツェでは、公共空間のベンチで誰もが休めるように、ベンチで糸を紡ぐことが禁止された。それほどまでに、隙あらば糸を紡いで生きていた人々がいたようだ。

*11 山梨の織物産地も分業化が著しいが、近年は細分化された工程を内製化し再統合する動きも生まれ、また産地に消費者を受け入れる活動も盛んだ。これらはアンドロギュノス神話のように、分割されてしまった存在が、もともと一つだった原初の姿に回帰しようとする力が働いているかのようにも見える。

*12 『千と千尋の神隠し』スタジオジブリ 2001.7.20公開 © 2001 Studio GhibliNDDTM 千尋とともにハクの本当の名前が思い出されるシークエンスでは、千尋が自ら紡いだ糸が編み込まれたお守りの髪留めをしていることが示唆深い。銭婆のセリフ「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで」や、「自分の名前を大事にね。」というのも本稿との関連が強く感じられる。

*13 BEATER または BATTEN とも。緯糸を生地側に押し込む道具は筬(おさ)や刀杼(とうひ)、綜絖(そうこう)など織機によって様々だが、自動織機では筬がそれを担い、その機構を日本では「バッタン」とも呼ぶ。日本語のオノマトペにも聞こえるが、前述のように英語でもbatten、フランス語でもbattant、つまりバッタンで、国際的なオノマトペといえるものである。


(『消しゴムとカッター』 以上)



BEAT WEAVEで配布される冊子では、もちろんこのコラムだけでなく、様々な魅力的なコンテンツが掲載される贅沢なものになる予定です。

ぜひ会場に足をお運びください!

富⼠⼭の北麓ハタオリマチ発テキスタイルマーケット

BEAT WEAVE

⽇程:2024年3⽉7⽇(⽊)〜10⽇(⽇)

時間:11:00〜19:00 ※初⽇12:00〜 ※最終⽇〜17:00

会場:GREEN SPRINGS 2F アトリウム 〒190-0014 東京都立川市緑町3番1

主催:富⼠吉⽥織物協同組合

企画制作:装いの庭

冊⼦制作:BEEK


(五十嵐)

2024年2月19日月曜日

文学の中の甲斐絹 ⑤現代語訳で読む、落合直文の小説『甲斐絹』

明治~昭和初期の文学に描かれた甲斐絹を紹介するシリーズ、第5回。

今回はその名も『甲斐絹』という短編小説それ自体をご紹介したいと思います。


小説『甲斐絹』は、母親想いのヒロイン、園子が、甲斐絹に関連した大ピンチから脱出しようと奮闘する物語です。

タイトルがズバリ『甲斐絹』そのものという記念碑的な作品なのに、写真にあるように文語体で書かれているため、読みづらいというのがもったいない作品です。


そこで、シケンジョテキでは、今回新たに全文を現代語訳してお送りします!

長さは文庫本で10ページ分くらいです。「かみ、なか、しも」の3部構成になっています。

それではぜひどうぞお読みください。

落合直文作『甲斐絹』現代語訳、はじまり、はじまり。



『甲斐絹』 落合直文:著 (現代語訳版)

かみ

しぐれ、みぞれ、霰。空は冬の寒さである。昨夜からは雪まで降りはじめた。貧しい家ではよく眠れずに夜を明かしたことだろう。少女は朝早く起きて戸を開けた。垣根のあたりはみな雪に埋もれてしまって、さざんか、寒梅などの枝先も見わけられなかった。

この少女というのは早瀬家の娘で、名を園子という。性格はとてもおだやかで、容姿もすぐれた娘であった。父との別離のあとで生活はとても苦しかったが、母の温情からとある女学校に通うことができ、去年の秋にそこを卒業したばかりである。しかし近頃、その母が病にかかってからは、日夜看病をして過ごすようになっていた。

あるとき咳をする声が聞こえ、母が目を覚ましたことを知った園子は急いで部屋に向かった。枕もとに手をついて、園子は言った。

「おめざめですか。今朝は雪も降って、寒さもこらえきれないほどです。お気分はいかがでしょう。」

そう問うと母は

「変わりありません。」

と答える。また母が

「竹村様からお返事はありませんか。」

と問うと園子は

「昨夜おそくありました。すぐにもお見せしようと思いましたが、よくお眠りになっていたので、そのままにしておりました。」

と言い、懐から取り出した。母は手に取り、半分くらい読んだところで、とてもうれしそうな表情になり

「園、あなたの就職先があるそうですよ」

と言ってまた読む。母は

「竹村様はあなたにすぐ来るようにと。すぐにお行きなさい。」

と言う。園子が

「お母さまのご病気をほうっては。」

と言うと、母は言った。

「心配いりません。女中のお染がいればなんとかなります。」

「でしたら、行って参ります。」

「今日は大事な日です。気を引き締めて間違いのないようになさい。親戚に顔向けできぬことなどないように、人さまに後ろ指を指されることのないように。」

園子は出て行った。積もった雪を踏みわけつつ、母の愛情の深さをかみしめながら。


一月四日のことだった。雪こそ積もっていたが、世間は年初めであったので、いたるところで門松を立て、しめ縄を引き張り、手まり、羽根つきなどに興じている。竹村家に着くと、新年のあいさつ客があるとみえ、屠蘇に酔い、歌い舞うさまは、たとえようのない賑やかさである。園子は心のうちに母のことを思い出し、世の中はいろいろなのだなと複雑な心境になるのだった。

玄関で案内を請い、家に上がって主人に会った。主人は竹村早雄といい、堅実さでよく知られ、そのころ成功者としてよく知られた人物であった。年は六十を二つ三つ越えたくらい、頭髪はやや白かった。彼は園子にむかって

「母君の頼みで、あなたを教員にしようと思っている。英語そのほかの学問は充分だろうが、裁縫はどうかね。」

と問うた。園子は

「ふつつかながら、おおよそのところは。」

と答える。主人は

「ある県で知事をしている友人がいる。とくに女性教員を採用したいそうで、今回は裁縫に詳しい人をとの仰せだ。一、二週間も我が家で過ごし、それから伝えようと思うが、どうかね。」

という。園子は母の病気のことが気にかかったので

「母に聞いたのちにお返事いたしたく存じます。」

と答えて帰宅した。

首を長くして帰りを待ちわびていた母は、園子が戻るとすぐにその仔細を尋ね、園子はありのままを答えた。園子は

「今はどうにもなりません。待っていればまた良いお話があるでしょう。母上のご全快を待ってからでも。」

と言った。母はそれを聞きいれず、

「あなたの進路が定まるのならば、この身がどうなろうとそれが定めです。いつかは誰にも別れはやってくるのですよ。母のことなど気にせずに。どんなときにも、いまの母のことばどおりに。」

と言った。園子は

「そのお気持ちはごもっともですが。」

「この母のためと思って。」

「それでも。」

「何度くりかえしてもしかたがありません。早くお行きなさい。」

そういう母の声は少し怒っているようだった。園子は返す言葉もなく、少ししてから

「ともかく明日にいたしましょう、今日はもう遅いですから。」

と母に言った。

園子は母の性格を知っていたので、もう一度繰り返してしまえば病気にもさわり、心を痛めるだろうと思い、仕方なく言うとおりにした。そして女中を呼び、薬のこと、医者のこと、食べ物のことなど詳しく言い聞かせ、後ろ髪を引かれながら出て行った。


なか

園子は年が明けて十七となっていた。母を想う心ふかく、母を想わぬときはなかった。竹村家にいるのも母のためであり、家に帰らずにいるのも母を想ってのこと、母を喜ばせたいからである。一事が万事、母のためなのであった。身体を大事にするのも母があってこそ、わが身の出世を願うのも母があってのことであった。要するに、園子の心には母を想うこと以外になにもないのであった。この健気な母親想いの娘を神は守って下さるであろうか、この哀れなる孝行娘のことを神はご存じなのであろうか。

ある日の夜、主人が園子を呼び、一巻きの甲斐絹を手渡し、

「これを裁断し、私の寝衣を作ってくれんか。」

と言う。園子は

「承知いたしました。」

と答えて受け取った。園子は心の中で、これは私を試そうとなさっているのだ、母からの忠告はこの時のためにあったのだと悟ると、その部屋を辞し、灯りの元で生地を裁ち切った。するとなんという失態であろうか、違うところを切ってしまった。ああ、と驚いたときには、もう為すすべはないのだった。どうにかしなければと思い悩めば、その脳裏に浮かぶのは母のことであった。裁ちそこなってしまった絹の上には数えきれない涙の粒が落ち、その夜は一晩泣き明かした。


翌朝すぐにその絹の生地を携えて、大丸へ行って問い合わせたが、在庫はないという。越後屋、白木屋にも訪ねたが、そこも同じであった。

ほかにどうしようもなくなってしまい、母に相談してみようと家に帰ることにし、急ぎに急いで門のところまでやって来た。とはいうものの、さすがに入りづらく、行きつ戻りつしたあげく、とうとう家には入ることができなかった。

竹村家に帰ったけれど、あやまちが露見しないだろうか、日数がかかりすぎてしまうのでは、と心は乱れた。風邪をひいたと偽って園子は床についた。嘘をつくのは悪いことだ。悪いということは園子も知ってはいたけれど、でもそれはわが身かわいさからではなく、母のためなのだった。園子の嘘は、偽りとはいえども、真実にもまさる誠の心から生まれたものといえただろう。


一日二日すぎて、竹村の妻、玉江が園子の部屋に入ってきて

「おかげんはいかが。」

と問う。園子は

「ありがとうございます。なんとか良いほうです。」

と答える。玉江は

「薬でもお飲みなさい。」

と勧める。園子は

「それほどではございません。ところで、ご主人さまの御召物が遅くなってしまい申し訳ありません。少し良くなったら縫いますので、よろしくお伝えくださいますか。」

という。玉江は

「それは別の者にも頼めましょう。ただあなたの病気が。」

「その御召物はぜひ私が。」

そして園子は言葉を重ねた。

「あの反物は縞柄、風合い、とても美しいものでした。どちらからご入手されたものでありましょうか。」

玉江は

「お歳暮にと、水谷様という御方からいただいたものですよ。」

「水谷様とは、どちらの御方でしょうか。きっとお国元で作られた織物なのでしょう。」

「水谷様も、よそからお求めになったものだそうです。」

「水谷様は、私がこちらに参ってからはお越しになられていないようですが、いかがでしょう。」

「時折お見えになりましたが、近頃は学校も始まり、いまは大学の寄宿舎におられるかと。」

そのように何気なく質問をかさねるうち、園子は水谷という御方のことを知り、またその所在さえも聞くことができた。園子の喜びようといったらなかった。園子は心の中でひとり思った。水谷様は見も知らぬ御方なので、いきなりお手紙でお願いするというのはいかがなものだろう。また手紙では心からの思いをお伝えすることも難しい。お目にかかり、直にお願いさせていただこう。そうよ、そうすることにしよう、と思い定めたけれど、どんな御方なのかも分からないのでは、言い出したはいいが恥をさらすことになりはしないだろうか。そうなっても仕方のないこととはいえ、どうしたものか、と何度も思い返しては、繰り返し考え直すのだった。


しも

煉瓦づくりの建物が建ち並び、松の木なども所々に植えられて、目にも広々としたその場所は、くだんの学校であった。意を決した園子は、恐れる様子もみせずに進み入り、呼び鈴を鳴らして案内を乞うと、係の者が現れた。名刺を渡して水谷氏への面会を求め、応接室に通されて、待つこと二十分あまり。そのあいだ園子は終始うつむいて、物思いにふけっていた。どのような順序で話すべきかと考えていたのであろう。

水谷は名刺を受け取ったものの、まったく知らない人物で、しかも女性。いったいどういうことだろう、と不審に思いながら部屋に入って来た。それに気づいた園子は椅子から立ち上がって一礼すると

「大変ご無礼とは存じますが、実はお願いしたいことがありまして参りました。ここでは差し支えがあろうかと存じますので、しばし外へご一緒いただけますでしょうか。」と言う。

いよいよ妙なことになってきたと思いつつも、お願いごとと聞いては断りづらく、水谷も一緒に席を立った。

門には二台の車があり、片方に水谷を乗せて先に走らせ、園子は少し間をおいて後を追った。車は上野の方へと進んで行く。水谷は振り返りもせず、園子もそちらを見ることはなかった。不忍池のほとりで車を停めると、園子は水谷をとある茶店の奥へ伴った。園子が手をついて、なにかを言おうとして言えずにいる様子をみて水谷はこう言った。

「お願いとはいったいどういうことでしょうか。」

園子は嬉しさでいっぱいになり、

「そのお願いと申しますのは。」

といって、母の病気のこと、竹村家のこと、裁縫のことなどありのままに語ったが、その内容は話の順序もままならなかった。そして最後にこう言った。

「どうか一生のお願いでございます。私を哀れと思ってくださるなら、あの織物をひと巻き、くださいませんでしょうか?」

水谷は答えなかった。園子は言葉を継いだ。

「女の身でこのようなお願い、さぞお腹立ちでございましょうけれど。」

水谷はまだ答えない。

「お医者様によると、母はもう長くはないかもしれないとのこと。母は私のことだけが心残りなのです。どうか気の毒な母のため、この願いをかなえてくださいませんでしょうか。」

水谷は一言も発しなかったが、園子の最後の言葉を聞いて、なんと哀れな話だと思ったのであろう、一滴の涙をこぼした。その涙は園子にとって、千言万語にも勝る返答であっただろう。水谷は言った。

「あなたの願い、承りました。ただ、あの織物は甲斐の国の産物です。手配するのに二、三日はかかるでしょう。ご承知おきください。」

その言葉を聞いた園子は、まるで夢の中にいるような気持ちとなり

「この度は本当に。」

と答えることしかできなかった。水谷は言った。

「どちらへ届けさせましょうか。」

「私がいただきに上がりましょうか。」

「ほかになにか良い方法は?」

「私の母からの届け物として直接送っていただけますか。」

「それがよいでしょう。」

園子は

「御酒を一献差し上げたいのですが、いかがでしょうか。」

と問うたが、水谷は答えた。

「このような場所でゆっくりしていれば、あとあとお互いに余計な面倒があるかも知れません。酒はどこでも飲めましょう。今日はこれにて。」

園子も無理強いはせず、水谷が出てゆくのを見送った。

水谷は口数の少ない人だが、温和な人物であった。園子にとっては慈悲の心のあふれる恩人であった。園子は彼を尊敬するとともに、その心には思慕の念が生まれていたことだろう

あとで園子は、自分のあんなふるまいを見て無礼な女と思われなかったか、自分の言葉に失礼がなかったか、この事はこう言えば良かったのではないか、あの事はこうしておけば良かったのでは、などと、女心の常としてそう思わずにいられないのだった。


花瓶にさした水仙花、柱にかけた短冊、広くはないが小綺麗な部屋、それが竹村家での園子の部屋である。例の病気といって引きこもっている園子は心の内で、今日はもう三日目、水谷様はどうされただろう、手紙を送ったら、催促と思われるだろうか、自分から訪ねてしまったら、軽率と言われてしまうだろうか。母の病気のお加減はいかがだろう、自分のことを案じてくださっているだろうけれど、私のこの心配事はご存じないはず。そんなことを園子はつれづれと思いつつ過ごしていた。

そのとき取次の者が紙の包みを持ってやってきた。部屋を出ていくのを待ってから開いてみると、あの織物だった。園子は、水谷様、と心のうちでつぶやき、手を合わせた。

園子は今度こそ、と昼夜の別もなく急いで縫い上げ、主人に見せると、主人はことのほか喜んだ。そうこうするうち、くだんの知事から急いで派遣してもらいたい、と連絡があった旨を主人は園子に伝えた。園子の喜びはどれほどであったろう。園子は急いで家に帰り母に伝えると、母の喜びようもまた計り知れないものだった。


少し暖かい陽気となった。母の病気も快復し、園子は母と共に出発することとなった。園子はその旨を水谷に書き送った。

水谷と別れてからは何日もたつけれど、園子はそれ以来一度も彼を訪ねたことはなかった。訪ねないだけでなく、お礼状さえ送っていなかった。それは人目をはばかってのこと、世間の目を考えてのことだった。手紙を送るのは、今回のその手紙が初めてなのだった。その手紙さえ、出立の日を知らせるのみで、余計なことは記さなかった。ただ、お目にかかれないのは本当に心残りであるとだけ書き添えた。


その日がやってきた。新橋の停車場にゆくと、水谷がそこにやって来ていた。園子はそれに気づくと歩み寄り、なにも言わずに涙ぐむのだった。水谷も黙って一礼するのみだったので、園子の母は知人の一人かと思っただけであった。

汽車が走り出そうとしていた。さようなら、水谷様。さようなら、園子様。ふり返る園子。それを見送る水谷。そのとき汽笛が鳴り、惜別の想いを映すかのように、長く響き続けた。


(明治二十三年一月「しがらみ草紙」)

*現代語訳:五十嵐哲也



(注)翻訳にあたっては極力原文の意味をくみとるよう留意しましたが、「(原文)みめかたちハたすくれたり → (訳文)容姿もすぐれた娘であった」のように原文にない単語「娘」を加えるなど、読みやすいように言い換えをした表現などがあることをご了承ください。また他、スマホ等での読みやすさを考慮して、改行のあとには行間を少し開け、またあきらかな場面転換の場所ではさらに行間を空けるよう表記しました。その他、古文の文法知識の不足などによる誤訳もあるかと思いますがご容赦ください。著しい間違いなどはご指摘いただけると助かります。


<解説にかえて>

小説『甲斐絹』は、歌人、国文学者としても知られる落合直文(おちあい なおぶみ、1861 - 1903)によるもので、森鷗外が主宰した月刊の文芸雑誌「しがらみ草子」で1890年(明治23年)1月に発表されました。

この作品の存在はこれまでシケンジョでも把握していませんでしたが、昨年2023年秋に開催されたFUJI TEXTILE WEEKの企画展『甲斐絹をよむ』の準備中、写真家の川谷光平さんが作品づくりのためのリサーチのなかで見つけてくれました。

現在でも小説『甲斐絹』は、『明治文學全集44』(筑摩書房)や、『落合直文著作集 2巻』(明治書院)で読むことができます。(ちなみに『明治書院』の社名は落合直文による命名で、初代編集長は彼の門下にいた与謝野鉄幹だったそうです。)

作品では、甲斐絹がヒロインの運命を左右する重要なアイテムとなり、また仄かな恋心をいだいた相手と出会うきっかけにもなっていて、作品中でも物語の重要な鍵となっていました

このように『甲斐絹』そのものが中心となった文学作品というのは、この「文学の中の甲斐絹」シリーズで紹介している作品の中でも唯一無二の存在。

甲斐絹の歴史上、また山梨の歴史にとっても非常に重要な作品といえるでしょう。

ここからは、作品の背景や描写を補足する情報をいくつかご紹介したいと思います。


「かの御召物ハしま柄、地合、いと美麗なり」

園子が竹村氏から渡された甲斐絹について、原文ではこのように表現されていて、それが美しい縞甲斐絹だったことが分ります。

また竹村氏はそれで「寝衣(しんい)を作るように園子に依頼しました。「寝衣」はつまり和装の「寝間着、寝巻、あるいは寝間着として使われる「浴衣」と考えられます。

甲斐絹がそうしたものに使われたという記述は、フィクションの中の例ではありますが、初めて知ることができました。

ふつう寝間着は木綿などで作られることが多かったようですが、和装の時代には身分の高い人は白絹を寝間着にしていたそうで、この小説のように裕福な主人が甲斐絹で寝衣を作るということは実際にあったのかもしれません。


甲斐絹に落ちる涙

物語の序盤のハイライトといえるのが、園子が渡された甲斐絹を間違えて裁ってしまい、甲斐絹のうえに幾つもの涙をこぼすシーンです。

この小説の発見者として先ほどご紹介した写真家の川谷光平さんの作品は、このシーンにインスパイアされたもので、企画展甲斐絹をよむで展示作品のうちの2点として制作されました。


小説『甲斐絹』から生まれた川谷光平さんの作品


FUJI TEXTILE WEEK 2023 企画展『甲斐絹をよむ』での展示風景

© 2023 Kohei Kawatani   © 2023 FUJITEXTILE WEEK

川谷さんの作品のなかで園子の落とした涙のつぶは、よく見るとコンタクトレンズです。

川谷さんは、この物語をモチーフにした写真作品を作るにあたって、130年以上たった2023年の世界でこの物語を読み取ったという印を込めたと話してくださいました。

光を受けて涙のつぶが甲斐絹以上にキラキラと輝いて見えます。


園子の呉服店めぐり

中盤では、裁ち間違えてしまったのと同じ甲斐絹がどこかで売ってないかと、園子が「大丸」「越後屋」「白木屋」を探し回るシーンがありました。

「大丸」「越後屋」「白木屋」は、江戸時代から「江戸三大呉服店」と呼ばれた老舗で、明治23年当時も反物を探す場所としては東京でもトップ3といえる大きな呉服店だったでしょう。

園子が甲斐絹を求めて走り回ったのは、作品の中に登場する地名「上野」「不忍池」「新橋駅」から、日本橋周辺にあった店舗だろうと推測できます。

「大丸」は当時の大丸呉服店で、現在は大丸松坂屋百貨店が経営する大丸東京店「越後屋」は当時の三井越後屋呉服店、現在の日本橋三越本店と思われます。

「白木屋」は江戸時代から続くも1967年に日本橋本店が東急百貨店となり現在その名は残りませんが、本店のあった場所はいまコレド日本橋になっています。

こうした最大級の呉服店三軒を探し回っても見つからないということで、甲斐絹を求めてさまよう園子の焦燥の度合いが察せられます。


「孝女」モチーフ

この小説の大まかな筋は、母親想いの園子が、間違えて切ってしまった甲斐絹の代わりを得るため、勇気を出して訪ねた水谷のおかげで救われ、無事に親孝行を果たすことができたという、親孝行ストーリーとも言えるものでした。

現代の感覚からすると、ここまで母のことばかり考えている園子が不思議に思えるくらい親孝行が園子のモチベーションの核になっています。

ところで落合直文の代表作は、当時世界的にも広まった作品『孝女白菊の歌』といわれており、それは主人公の白菊という娘が、行方不明の父を探す旅に出るという父親孝行娘のについての詩編だそうです。

その『孝女白菊の歌』『甲斐絹』の前年、前々年に書かれたとされ、『甲斐絹』での園子の母親孝行ぶりを読むと、この二作はもしかしたら白菊園子が対になった孝行娘シリーズと言えるものだったのではないかという想像もできます。

あるいは当時の修身教育では、親孝行が倫理道徳の中心とされていたそうなので、このように親孝行の要素があるのはごく当たり前のことだったのかも知れません。


「甲斐絹」の当て字が広まった時期

「甲斐絹」というのは明治時代に生まれた当て字です。それまでは「海気」「海機」「改機」「加伊岐」などの様々な当て字のほか、片仮名で「カイキ」とされることもあったそうです。

『創立70周年記念誌』(山梨県工業試験場 )によると、その中で最も多く使われたのが「海気」で、明治30年頃までは地元でもこれを使い、また県文書統計も明治40年まで「海気」を使用していた、という記述があります。

今回見つかった『甲斐絹』が書かれたのは1890年(明治23年)ということなので、その頃に県外でも一般に「甲斐絹」の表記がある程度広まっていたことを新たに示す証拠となりました。

また、もしかすると当時の著名人である落合直文が小説のタイトルに『海気』ではなく『甲斐絹』を選んだということで、甲斐絹が甲斐の国の物産であることが広まり、一般に「甲斐絹」の表記を広める推進力になったかもしれないと想像することもできます。


駅での別れ

後半は、窮地に陥った園子の救い主として登場する「水谷様」への恋心もうっすらと描かれ、物語のラストの場面は、文字数はきわめて少ないながら、新橋駅での二人の感動的な別れのシーンとなっていたのが印象的でした。

ここで新橋駅について日本の鉄道の歴史をひもといてみると、日本初の鉄道が新橋~横浜間で開通したのが1872年(明治5年)、新橋~国府津間(小田原の手前)まで延びたのが1887年(明治20年)、そして新橋から国府津の先まで開通したのは1889年(明治22年)の新橋~神戸の全線開通の年になっています。(ちなみに上野~青森の東北線開通は1891年(明治24年)です。)(『日本の鉄道創世記』河出書房親書より)

園子の赴任先は、作中では「某縣(県)」としか説明はありませんが、新橋駅での別れのラストシーンあのような切ない別れの描写だったので、ある程度遠い場所だったと思って良いでしょう。

新橋からの鉄道が十分に遠い土地(小田原以遠)まで延びたのは1889年(明治22年)なので、『甲斐絹』の1890年(明治23年)というのは、その直後といえる時期書かれたということが言えそうです

駅での別れの名シーンは映画や小説の中でたくさん描かれてきたと思いますが、『甲斐絹』の事例は、その中でもかなり初期の部類であると言えるのではないでしょうか。

そしてもしかしたら、このような別れのシーンの原型のひとつになっていった可能性もあるのでは、と想像が広がります。

駅での別れというモチーフで個人的に思い出されるのが、伝説のブルースマンと言われるロバート・ジョンソン(1911 - 1938)『Love in Vain』(1937年録音)という曲です。ザ・ローリング・ストーンズによるカバーが特に有名です。

歌詞を日本語にするとこんな感じです。

・ ・ ・ ・ ・

『Love in Vain』 / Robert Johnson

『むなしい恋』/ロバート・ジョンソン

駅まで彼女を見送りに行ったんだ
スーツケースを一つ持って運んであげた
ああ、恋が終わろうとしているときに
言葉なんて出てきやしない
僕の恋は終わってしまうんだ

汽車が駅にやってきたとき
僕は彼女の瞳を覗き込んだんだ
ああ、切なかった、もう切なくて
涙を流すことしかできなかった
僕の恋はもう終わってしまうんだ

列車が駅を出ていってしまったあと
二つの灯りが点っていたんだ
青い灯りは僕の悲しみで
赤い灯りは僕の心だった
そうして、僕の恋は終わってしまった

ああ、ウイリー・メイ
ああ、ウイリー・メイ
僕の恋はむなしく終わってしまった


(日本語訳:五十嵐哲也)

・ ・ ・ ・ ・

『甲斐絹』のラストシーンとシチュエーションは若干違いますが、駅から走り去る列車が二人を無情に引き離すときの、やるせなさ、せつなさは、とても近しいような気がします。

また男性のほうが残って、旅立つ女性を見送るというパターンも一緒です。

『甲斐絹』では汽笛、『Love in Vain』では信号灯という鉄道の備品が、感情を表現する演出の小道具になっているのも共通しています。

ロバート・ジョンソンの歌が録音されたのは今からもう約90年近く前で、もはやクラシック音楽といえるくらいの長い歴史を経ていますが、驚くべきことに『甲斐絹』での駅の別れのシーンは、さらに47年、約半世紀も前(!)にさかのぼります。

このことからも『甲斐絹』のラストの駅での別れのシーンは、かなり早い時期の事例だったことが実感できるのではないでしょうか。


以上、落合直文の『甲斐絹』の現代語訳と、作品を味わうための解説をいくつかご紹介しました。

甲斐絹の中の文学シリーズ、次回は作品に描かれた甲斐絹の風景をご紹介する予定です。

どうぞお楽しみに。

[甲斐絹 関連ページ]

2024年 2月19日 文学の中の甲斐絹 ⑤現代語訳で読む、落合直文の小説『甲斐絹』
2024年 1月24日 文学の中の甲斐絹 ④甲斐絹の用途
2023年 10月4日 文学の中の甲斐絹 ③甲斐絹の色彩
2023年 10月4日 文学の中の甲斐絹 ②甲斐絹のオノマトペ辞典
2023年 10月3日 文学の中の甲斐絹 ①文人たちが書いた甲斐絹
2022年 10月21日 DESIGN MUSEUM JAPAN 山梨展「甲斐絹」千年続く織物 “郡内織物”のルーツ
2014年 1月17日 甲斐絹ミュージアムより #10  「白桜十字詩」
2013年12月24日 甲斐絹ミュージアムより #9  「この松竹梅がスゴイ!」
2013年11月15日 甲斐絹ミュージアムより #8 「今週の絵甲斐絹3 ~松竹梅~」
2013年10月31日 甲斐絹ミュージアムより #7 「今週の絵甲斐絹2」
2013年10月25日 甲斐絹ミュージアムより #6 「今週の絵甲斐絹1」
2013年 9月27日 甲斐絹ミュージアムより #5/84年後に甦った甲斐絹
2013年 9月21日 甲斐絹ミュージアムより #4/甲斐絹展が始まります!
2013年 6月28日 甲斐絹ミュージアムより #3 シャンブレーの極致!玉虫甲斐絹
2012年 4月27日 甲斐絹ミュージアムより #2
2012年 4月13日 甲斐絹ミュージアムより #1

(五十嵐)

2024年1月24日水曜日

文学の中の甲斐絹 ④甲斐絹の用途

明治~昭和初期の文学に描かれた甲斐絹を紹介するシリーズ、第4回。

今回は、『甲斐絹の用途』と題して、文学作品の中で甲斐絹どんな使いみちで書かれていたかを紹介します

これまでのシリーズで紹介した甲斐絹が登場する戦前の作品のうち、何かしらの使われ方で甲斐絹が描写されている作品事例での用途を、イラスト付きの一覧でまとめてみました。


これまで「甲斐絹は主に羽織の裏地として使われた」という言葉が、ほとんど唯一の甲斐絹の用途の説明として言い伝えられ、繰り返し語られてきました。

しかし、今回の調査結果を見ると、それ以外のバリエーションが二十数種類あったことがわかり、予想外の甲斐絹の用途の多彩さに驚かされる結果となりました。

ここで注意すべき点は、文学作品から分かるのは、実際に甲斐絹がそう使われていたかどうか、という事実関係ではなく、一般に甲斐絹は何に使われるものなのかという当時の人々の意識、いわば人々の心の中の《甲斐絹像》なのだろう、という点です。

それをふまえつつ、次に具体的な登場回数を加え、甲斐絹の用途の頻度を図解してみます。


この結果を見ると、たしかに羽織の裏地が8件で最多で、「甲斐絹は主に羽織の裏地」と言えなくはないものの過半数には程遠い少なさであり、残りの大多数、82%は他の用途として登場していたことは驚きの結果でした。

なお「小袖?」と書いた4つの事例は、前後の文から和装の上着として代表的な小袖であろう、と推測できるものの、甲斐絹がその表地か裏地かどうかをふくめて定かではないものです。

もしこれらが裏地だった場合、羽織ではないにしろ和装の裏地としての事例は、実際にはもう少し多かったかもしれません。

ちなみに、これらが書かれた年代は1888年~1942年(明治21年~昭和17年)54年間でした。

この54年間に登場する甲斐絹の用途を時系列に並べてみると、このようになります。



この分布を見ると、羽織の裏地として登場するのは明治末期に集中し、大正3年が最後となっています。

甲斐絹が羽織の裏地として登場する作品では、すべて同時代(明治~大正)の服装の描写として甲斐絹が現れていました。

調べてみると大正時代から一般男性への洋服の普及が急速に進んだとされているので、大正3年以降に羽織の描写がないことは、もしかしたら洋装化の流れで羽織の裏としての甲斐絹の需要が減り始めた兆しなのしれません。

一方、脚絆・手甲は長期間にわたって登場していました。

脚絆・手甲が登場する作品は、羽織の例と違ってすべて江戸時代が舞台の作品であり、また一つの例外をのぞいてみな女性の旅装束として書かれていました。

脚絆・手甲における甲斐絹は、実際に使われたかどうかはともかく、江戸時代を舞台にした時代劇のなかで女性が旅するときの小道具として、一般にイメージが広く定着していたということを表していると考えられます。

次に上記の図解の元データとなった文学作品の該当部分を、甲斐絹の用途別に一挙にご紹介します。

※ 青字 が作品の抜粋、その後の※赤字」は解説です。

※ ・ ・ ・の印のあとは、同じ人物の服装について別の箇所でも甲斐絹が登場する場面があった事例です。


[羽織の裏] 夏目漱石 『虞美人草』(1907 明治40)
床の抜殻は、こんもり高く、這い出した穴を障子に向けている。影になった方が、薄暗く夜着の模様を暈(ぼか)す上に、投げ懸けた羽織の裏が、乏しき光線(ひかり)をきらきらと聚(あつ)める。裏は鼠(ねずみ)の甲斐絹(かいき)である。
※主人公「小野さん」の恩師、井上孤堂先生が、病床から小野さんを出迎えて羽織を着ようとするときの描写。「甲斐絹と文学散歩」(金子みすゞの詩を読む会/2013)によると、「英吉利織」のスーツでおしゃれをした新進の文学士「小野さん」と、鼠甲斐絹の羽織を着ようとする病気の「井上先生」には、新時代と旧時代の対比が表わされているという。この場面の直前にも「井上先生」は「降りつつ夜に行くもの」「運命の車で降りるもの」と、下降線をたどっているように評されており、この場面は、甲斐絹はきらきらと光るけれども、そこに差している光はもはや乏しい、というニュアンスの演出意図を読み取ることができる。

[羽織の裏] 谷崎潤一郎 『少年』(1911 明治44)
やがて信一は私の胸の上へ跨がって、先ず鼻の頭から喰い始めた。私の耳には甲斐絹の羽織の裏のさや/\とこすれて鳴るのが聞え、私の鼻は着物から放つ樟脳の香を嗅ぎ、私の頬は羽二重の裂地(きれじ)にふうわりと撫でられ、胸と腹とは信一の生暖かい体の重味を感じている。
※主人公「萩原の栄ちゃん」が10歳くらいの頃、裕福な家の友人、塙信一らとともに「狼と旅人」ごっこをしているとき、信一が狼の役をして「私」に襲いかかろうとしているときに着ていた羽織の描写。

[羽織の裏] 樋口一葉 『一葉日記』(1896 明治29)
正太夫年齢は廿九、痩せ姿の面やうすご味を帯びて、唯口許にいひ難き愛敬あり、綿銘仙の縞がらこまかき袷に木綿がすりの羽織は着たれどうらは定めし甲斐絹(かいき)なるべくや、声びくなれど透き通れるやうの細くすずしきにて、事理明白にものがたる。かつて浪六がいひつるごとく、かれは毒筆のみならず、誠に毒心を包蔵せるのなりといひしは実に当れる詞なるべし /長谷川時雨『樋口一葉』(1918 大正7)より
・ ・ ・
(上の現代語訳抜粋)木綿の銘仙の細かい縞柄の袷に、木綿絣の羽織は着ているが、裏はきっと甲斐絹であろう。
/ 高橋和彦『樋口一葉日記 完全現代語訳』(1993 平成5, 発行:アドレエー)より
※一葉が明治29年5月29日の日記のなかで、正直正太夫(別号斎藤緑雨)のことを少々うさんくさい人物として評している文章のなかの描写。

[羽織の裏] 石川啄木 『天鵞絨』(1908 明治41)
突然四年振で來たといふ噂に驚いた人達は、更に其源助さんの服裝の立派なのに二度驚かされて了つた。萬(よろづ)の知識の單純な人達には何色とも呼びかねる、茶がかつた灰色の中折帽は、此村では村長樣とお醫者樣と、白井の若旦那の外冠る人がない。繪甲斐絹の裏をつけた羽織も、袷も、縞ではあるが絹布物(やはらかもの)で、角帶も立派、時計も立派、中にもお定の目を聳たしめたのは、づしりと重い總革の旅行鞄であつた。
※理髪師の「源助さん」が、四年ぶりに村に戻った際に、以前よりも服装が立派になっていた、という場面の描写。

[羽織の裏] 伊藤左千夫 『春の潮』(1908 明治41)
おとよは女中には目もくれず、甲斐絹裏の、しゃらしゃらする羽織をとって省作に着せる。
※主人公、省作が恋人のおとよから着せられている羽織の描写。

[羽織の裏] 泉鏡花 『露肆(ほしみせ)』(1911 明治44)
寒くなると、山の手大通りの露店よみせに古着屋の数が殖ふえる。(中略)絹二子(きぬふたこ)の赤大名、鼠の子持縞という男物の袷羽織。ここらは甲斐絹裏を正札附、ずらりと並べて、正面左右の棚には袖裏の細っそり赤く見えるのから、浅葱の附紐(つけひも)の着いたのまで、ぎっしりと積上げて、
※山の手大通りに並ぶ露店(よみせ)に並んだ商品である羽織の描写。

[羽織の裏] 有本芳水 『芳水詩集 断章十七  秋の朝』(1914 大正3)
秋の朝のさみしさ
ぬぎ捨てられた羽織の甲斐絹裏の赤い色が
ちくちくと眼にしむさみしさ

※秋の朝のさみしさを表現した詩のなかでの羽織の描写。

[羽織の裏] 三代目 三遊亭金馬 『噺家の着物』(作成年不詳 )
男の縮緬や、かべなどは、にやけるし、紋羽二重とくると坊さんじみるし、黒繻子がよい、とくると出羽の秋田で織りますのを最上等と致してあります。裏は甲斐絹がよいが、どういうものか甲斐絹は近頃はやらない。
※落語の円喬師が『垂乳女(たらちめ)』の枕で紹介した、国内諸国何か所もの生地を一堂に集めて装う衣装についての描写。

※次の二つも羽織の裏として甲斐絹が登場する作品ですが、戦後に書かれたものであるため、この投稿での甲斐絹の登場回数のカウントからは除外しています。

[羽織の裏] 司馬遼太郎 『竜馬がゆく』(1962-1966 昭和37-41 文春文庫より)
清河は、高橋宅を出た。
韮山笠(にらやまがさ)をかぶり、羽織は黒で甲斐絹の裏づけ、袴はねずみ竪(たて)じまの仙台平、大小もみごとなこしらえで、どうみても千石以上の大旗本といった身なりである。

※幕末の志士、清河八郎が幕府の刺客によって討たれた日の服装の描写。

[羽織の裏] 増田れい子 『紅絹裏(もみうら)』(1984 昭和59 『白い時間』講談社より)
羽織の裏、というのも面白かった。
背中と胴のほんの少しの部分にしかついていないが、さわるとキュキュと鳴る甲斐絹がついていた。銘仙か何かの羽織だったろう。表地の方はすっかり忘れてしまったが、甲斐絹の色合いだけは覚えている。オレンジと朱と、わずかなグレイが組み合わさった格子柄であった。いいものだな、と思った。

※作者の母が着ていた着物をたたむ手伝いをしていた頃を思い返して表現した羽織裏の描写。

 

[合羽の裏] 三木竹二 『いがみの権太』(1896 明治29)
紺の白木の三尺を締め、尻端折(しりはしょり)し、上に盲目縞の海鼠襟(なまこえり)の合羽に、胴のみ鼠甲斐絹(ねずみかいき)の裏つけたるをはおる。
※『義経千本桜』の登場人物、いがみの権太が纏っていた合羽の描写。

[半纏の裏] 林不忘 『丹下左膳 乾雲坤竜の巻』(1927 昭和2)
と! 踏み出した栄三郎のうしろから、こと面倒とみてか、男が美(い)いだけの腰抜け侍とてんから呑んでいるつづみの与吉、するりとぬいだ甲斐絹うらの半纒を投網のようにかぶらせて、物をもいわずに組みついたのだった。
※遊び人「つづみの与吉」が、幕府の剣士、諏訪栄三郎から大金を奪い取ろうと頭からかぶらせた半纏の描写。このあとこの半纏について「江戸の遊び人のつねとして、喧嘩の際にすばやくすべり落ちるように絹裏(きぬうら)を張りこんでいる半纒」との描写があり、甲斐絹の滑りの良さが取り上げられている。

[袴の裏] 林不忘 『丹下左膳 日光の巻』(1934 昭和9)
町のはずれまで宿役人、おもだった世話役などが、土下座をしてお行列を迎えに出ている。いくら庄屋でも、百姓町人は絹の袴は絶対にはけなかったもので、唐桟柄(とうざんがら)のまちの低い、裏にすべりのいいように黒の甲斐絹(かいき)か何かついている、一同あれをはいています
※伊賀藩主、柳生対馬守とお茶師、一風宗匠がたどりついた程ヶ谷の宿場町で、出迎える庄屋の衣装の描写。

[蹴出の裏] 泉鏡花 『当世女装一斑』(1942 昭和17)
腰より下に、蹴出を纏ひて、これを長襦袢の如く見せ懸けの略服なりとす、表は友染染、緋縮緬などを用ゐ裏には紅絹(もみ)甲斐絹(かひき)等を合はす、すなわち一枚にて幾種の半襦袢と継合すことを得え、なほ且長襦袢の如く白き脛(はぎ)にて蹴出すを得るなり、
※女性の下着から帯までの衣装を列挙して解説する文章のうち、着物の下に着る蹴出(けだし)(=裾除け)についての描写。

[前掛の裏] 近松秋江 『別れたる妻に送る手紙』(1910 明治43)
其れには平常(いつも)の通り、用箪笥だの、針箱などが重ねてあって、その上には、何時からか長いこと、桃色甲斐絹(かいき)の裏の付いた糸織の、古うい前掛に包んだ火熨斗(ひのし)が吊してある。
※主人公の別れた妻が家に残した前掛けの裏についていた甲斐絹の描写。ここで前掛けというのは職人の仕事着である藍染の帆前掛けではなく、女性用の前垂れ(和服用エプロンのようなもの)のイメージかと思われる。

 

[小袖?] 北原白秋 『桐の花』(1913 大正2)
鳴りひびく 心甲斐絹を着るごとし さなりさやさや かかる夕に
※小袖と思われるが不詳。甲斐絹の風合いが、心を沸き立たせるような、さわやかな心地よさを持つものとして歌のイメージの中核に位置づけられており、当産地の歴史上、特筆すべき重要な作品と思われる。

[小袖?] 吉川英治 『鳴門秘帖 江戸の巻』(1926 昭和1)
万吉もその様子を見てホッとしたが、ヒョイと見ると鼠甲斐絹(ねずみかいき)の袖に、点々たる返り血の痕――。ああ、斬ったな、何かあったな、とは思ったが、折からの来客、それを問うまもなく、また弦之丞も話をそれに触れず、常木鴻山と初対面の挨拶をかわした。
・ ・ ・
門柱の蔭にすがって、弦之丞は、駕から奥へ連れられてゆく、痛ましい人の姿を見送っていたが、やがて、両眼へ掌を当てたまま、鼠甲斐絹(ねずみかいき)のかげ寒く、代々木の原を走っていた。

※舞台は江戸時代中期。主人公で幕府の隠密、法月弦之丞(のりづき げんのじょう)の服装の描写。小袖と思われるが、裏か表かは不詳。

[小袖?] 吉川英治 『剣難女難』(1925 大正14)
重蔵も千浪も同じような鼠甲斐絹(ねずみかいき)に丸ぐけ帯、天蓋尺八という姿になった。
※主人公、春日新九郎の恋人である千浪と、新九郎の兄に重藏が、虚無僧の扮装をしたときの描写。小袖と思われるが、裏か表かは不詳。

[小袖?] 野村胡堂 『銭形平次捕物控 辻斬』(1941 昭和16)
「衣摺(きぬずれ)の音がします。近く寄るとサヤサヤと――」
「贅沢な辻斬だな」
 さやさやと衣摺れの音が聞えるのは、羽二重か甲斐絹か精好(せいごう)か綸子でなければなりません。

※覗き見た辻斬りの風体を尋ねられたやくざ者の音松が、暗闇だったので相手が見えなかったが、衣擦れの音がした、と言う時の描写。

 

[どてら] 有島武郎 『或る女』(1911 明治44)
事務長は眉も動かさずに、机によりかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録のほかに三人いた。その中の一人は甲斐絹(かいき)のどてらを着ていた
・ ・ ・
そう吐き捨てるようにいいながら倉地の語る所によると、倉地は葉子に、きっとそのうち掲載される「報正新報」の記事を見せまいために引っ越して来た当座わざと新聞はどれも購読しなかったが、倉地だけの耳へはある男(それは絵島丸の中で葉子の身を上を相談した時、甲斐絹のどてらを着て寝床の中に二つに折れ込んでいたその男であるのがあとで知れた。

※主人公、早月葉子が渡米する際に船内で会った、葉子の愛人である倉地の友人、正井が来ていたどてらの描写。のちに葉子は正井から脅迫され金をせびり取られるようになる。

[袖なし] 林不忘 『丹下左膳 乾雲坤竜の巻』(1927 昭和2)
銀糸を束ねた白髪、飛瀑(ひばく)を見るごとき白髯、茶紋付に紺無地甲斐絹の袖なしを重ねて、色光沢(つや)のいい長い顔をまっすぐに、両手を膝にきちんとすわっているところ、これで赤いちゃんちゃんこでも羽織れば、老いて愚に返った喜きの字の祝いのようで、まるで置き物かなんぞのように至極穏当な好々爺(こうこうや)としか見えない。
※名刀乾雲丸と坤竜丸を所持していた小野塚鉄斎の娘、弥生が、その名刀を打った刀工の末裔、得印兼光に出会ったときの描写。

[袖無着(ちゃんちゃんこ)] 林不忘 『つづれ烏羽玉(うばたま)』(作成年不詳 )
相良玄鶯院(さがらげんおういん)は、熊手を休めて腰をたたいた。ついでに鼠甲斐絹(ねずみかいき)の袖無着(ちゃんちゃんこ)の背を伸ばして、空を仰ぐ。刷毛で引いたような一抹の雲が、南風(みなみ)を受けて、うごくともなく流れている。
※もと御典医の蘭学者で、水戸藩尊王攘夷の志士を支援する相良玄鶯院が登場する場面での描写。

[寝衣(寝巻)] 落合直文 『甲斐絹』(1890 明治23)
ある日の夜はかり主人、園子をよび、一巻の甲斐絹をいたして
 こをたちてわか寝衣をつくりて
といふ。園子
 うけ玉はりはへり
とてうけとる

※主人公の園子が、就職の世話をしてくれる竹村早雄から、裁縫の教師になるための試しとして、寝衣(寝巻、寝間着)を作るよう手渡された生地として甲斐絹が登場する。しかし園子は誤って断ち切ってしまい、甲斐絹の上に数知れぬ涙をこぼしてしまう、という場面の描写。タイトルが『甲斐絹』そのものという特筆すべき重要な作品。しかし不思議なことに作中でも甲斐絹が大切な役割をもつにもかかわらず、本文中に「甲斐絹」の語はこの一度きりしか現れない。

 

※「パッチ」と「股引(ももひき)」は、長さの違いや素材の違いで区別されることもあるけれど同じものであったという説もあり、またその用法の区別は関東と関西で異なるようです。

[パッチ(股引)] 幸田露伴 『野道』(1928 昭和3)
他の二人も老人らしく似つこらしい打扮だが、(中略)鼠甲斐絹(ねずみかいき)のパッチで尻端折(しりはしょり)、薄いノメリの駒下駄(こまげた)穿きという姿(なり)も、妙な洒落からであって、後輩の自分が枯草色の半毛織の猟服――その頃銃猟をしていたので――のポケットに肩から吊った二合瓶を入れているのだけが、何だか野卑のようで一群に掛離れ過ぎて見えた。
※年配の友人3人に誘われて、おそらく作者自身と思われる主人公が野草をつまみに一杯楽しむ散歩に出かけた際、友人の一人(文中「鼠股引氏」)の服装を描写した文章。描写と友人の呼び名から、「パッチ」と「股引」が同等のものとして扱われていることが分る。

[パッチ(股引)] 三上於菟吉 『雪之丞変化』(1935 昭和10)
それが、済むと、浮いた浮いたと、太鼓持が、結城つむぎのじんじんばしょり、甲斐絹のパッチの辷(すべ)りもよく、手ぶり足ぶみおもしろく、踊り抜いて、歓笑湧くがごときところへ、
※主人公の雪之丞が、仇敵である長崎屋三郎兵衛を待ち受ける宴席で、座を盛り上げようと踊っている太鼓持の服装の描写。踊りの軽快さと、甲斐絹のすべりが良いことが関連づけられて表現されている点が興味深い。

[パッチ(股引)] 三遊亭圓朝 『政談月の鏡』(1892 明治25)
ドッシリした黒羅紗(くろらしゃ)の羽織に黒縮緬の宗十郎頭巾に紺甲斐絹(こんがいき)のパッチ尻端折(しりはしお)り、
※舞台は宝暦6(1756)年。父、清左衛門のため物乞いをする娘、お筆に大金を施した盗賊、月岡幸十郎の服装の描写。

 

[ドレス] リットン・ストレチー/片岡鉄兵訳 『エリザベスとエセックス』(1941 昭和16)
黒い甲斐絹(タフタ)をイタリア風に裁断したドレスが、広幅の黄金の帯で飾られ、開き(オープン)にした袖には、緋縁どりが施してあった。
※舞台は16世紀イギリス。エリザベス一世の胸のところで大きく切れ込みの入った衣装を見て、フランスの大使ド・メッスが驚いたときのドレスの描写(メッスのこのときの記録は史実として残されている)。作中では明らかに日本の絹織物ではないにもかかわらず、タフタ(平織り)の生地を甲斐絹と表現しているのが興味深い。

 

[脚絆] 三遊亭圓朝 『粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分)』(1888 明治21)
駕籠の脇に連添う一人の老女は、お高祖(こそ)頭巾を冠り、ふッくりと綿の這入りし深川鼠三ツ紋の羽織に、藍の子もち縞の小袖の両褄(りょうづま)を高く取って長襦袢を出し、其の頃ゆえ麻裏草履を結い附けに致しまして、鼠甲斐絹(ねずみがいき)の女脚半(おんなきゃはん)をかける世の中で、当今(たゞいま)ならば新橋の停車場(すてえしょん)からピーと云えば直(じき)に川崎まで往かれますが、其の頃は誠に不都合な世の中で、川崎まで往くのに、女の足では一晩泊りでございます。
※舞台は寛保年間(1741-44)の江戸。登場人物のひとり重助の宅に母娘の来客があり、その母親の服装を描写したもの。この作品では「女脚半」「女脚絆」という用語が登場するが、Google検索の結果を見るかぎり現在はその言葉は使われていないと思われる。

[脚絆] 三遊亭圓朝 『粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分)』(1888 明治21)
正「でげすがね、お松が若がって、余程(よっぽど)可笑しいんでさア、両褄(りょうづま)を取って白縮緬の褌(ふんどし)をピラツカせて、止せば宜(い)いのに鼠甲斐絹(ねずみがいき)の女脚絆を掛けて、白足袋に麻裏草履を結(ゆわ)い附けにして、馬が来ると怖いよーッて駈け出すんですが、馬の方で怖がってるんで、あのくらいな化物は有りませんや、本当に面白いんで」
※舞台は寛保年間(1741-44)の江戸。幇間の正孝が、吉原の年配の芸者、お松が若ぶっていると嘲笑する場面でその服装を描写したもの。細かいニュアンスは分からないが、若い女性なら似合うだろうけれども…、という装束として甲斐絹の脚絆が用いられているようだ。なお、この作品では別の人物について甲斐絹の脚絆の描写があった(上の項目参照)。

[脚絆] 三遊亭圓朝 『鹽原多助一代記』(作成年不詳 )
「はい御免なさい」
 と云いながら這入って来た婆アは、年頃は五十五六で、でっぷり肥り、頭を結髪(むすびがみ)にして、細かい飛白(かすり)の単衣に、黒鵞絨(くろびろうど)の帯を前にしめ、白縮緬のふんどしを長くしめ、鼠甲斐絹(ねずみがいき)の脚絆に、白足袋麻裏草履という姿(なり)ですから、五八はいろんな人が来るなアと呟やいて居ますと、

※舞台は1760年ころの江戸。娘のお梅の行方を捜しに来た、三田の三角の引手茶屋「あだや」のおかくという「婆ア」の服装を描写したもの。

[脚絆] 国枝史郎 『甲州鎮撫隊』(1938 昭和13)
悲痛といってもよいような、然ういう娘の声を聞いて、お力は改めて、相手をつくづくと見た、娘は十八九で、面長の富士額の初々しい顔の持主で、長旅でもつづけて来たのか、甲斐絹(かいき)の脚袢には、塵埃(ほこり)が滲にじんでいた。
※舞台は幕末の江戸。千駄ヶ谷で療養する新選組の沖田総司のもとを京都からはるばる訪ねてきた、総司かつての恋人、お千代の服装の描写。主人公の総司が心から愛するヒロインが、初めて登場する場面で身につけているものとして甲斐絹が用いられている。

[手甲、脚絆] 江見水蔭 『死剣と生縄』(1925 大正14)
旅装束何から何まで行き届かして、機嫌克(よ)くお鉄は送り出して呉れた。
鉄無地の道行(みちゆき)半合羽(はんがっぱ)、青羅紗の柄袋(つかぶくろ)、浅黄(あさぎ)甲斐絹の手甲脚半(てっこうきゃはん)、霰小紋(あられこもん)の初袷(はつあわせ)を裾短かに着て、袴は穿かず、鉄扇を手に持つばかり。斯うすると竜次郎の男振りは、一入(ひとしお)目立って光るのであった。

※舞台は江戸時代末期。生縄のお鉄という捕縛術に優れた女侠客のもとに囚われていた武士、磯貝竜次郎が、師匠の秋岡陣風斎に会いに江戸に行く許しを得たのち、お鉄が準備してくれた旅装束の描写。男振りがひとしお目立って光る、という装束のひとつに甲斐絹が用いられている。

[手甲、脚絆] 国枝史郎 『犬神娘』(1935 昭和10)
門口に近い柱に倚って、甲斐絹の手甲(てっこう)と脚絆とをつけ、水色の扱(しご)きで裾をからげた、三十かそれとも二十八、九歳か、それくらいに見える美しい女が、そう云ったのでございます。
・ ・ ・
と、どうでしょうそのご上人様の手先を、甲斐絹(かひき)の手甲の女の手が、ヒョイと握ったではございませんか。

※舞台は安政五年(1860)頃。西郷吉之助(のちの隆盛)と仲間たちが上人様を京都から薩摩へ護送する途中、上人様の籠に近づいてきた謎の女、お綱という犬神の娘の服装の描写。タイトル名にもなっている主役級の若く「美しい女」の装束として甲斐絹が用いられている。

[甲掛(女性)] 国枝史郎 『神秘昆虫館』(1940 昭和15)
「かしこまりましてございます」こう云ったのは松代である。道行(みちゆき)を着てその裾から、甲斐絹の甲掛(こうがけ)を見せている。武家の娘の旅姿で、歩き方なども上品にしている。
※舞台は天保十年(1841)頃。永世の蝶という宝物を求めて旅をする一行のうち、快盗「七福神組」の頭である「弁天の松代」が、武家の娘の旅姿をしている場面の服装の描写。松代がいかにも上品な武家の娘のように見える、という装束に甲斐絹が使われている。

 

[襟巻] 水野葉舟 『帰途』(作成年不詳 )
と、言うところに、顔の滑らかな青白い中年の男がはいって来た。白い甲斐絹の襟巻を首に巻きつけていた。
※主人公が上京する馬車の旅で、S村で最後に乗車してきた6人目の男の服装の描写。



[洋傘] 谷崎潤一郎 『秘密』(1911 明治44)
私はすっかり服装を改めて、対(つい)の大島の上にゴム引きの外套を纏い、ざぶん、ざぶんと、甲斐絹張りの洋傘に、滝の如くたたきつける雨の中を戸外(おもて)へ出た。
※上海への船上で知り合った謎の女「T女」に偶然再会し、誘われて翌日会いに行こうとする時の洋傘の描写。

[洋傘] 宮本百合子 『砂丘』(1913 大正2)
「ナニ、ほんの一寸、だけど、またれる身よりも待つ身の何とかってね……」
女は洋傘の甲斐絹のきれをよこに人指し指と、中指でシュシュとしごきながらふるいしれきったつまらないことを云った。
それで自分では出来したつもりで、かるいほほ笑みをのぼせて居る。

※主人公と待ち合わせていた女が持っていた洋傘の描写。

 

[座布団] 泉鏡太郎 『神鑿(しんさく)』(1909 明治42)
其時坐つて居た蒲団が、蒼味(あおみ)の甲斐絹で、成程濃い紫の縞があつたので、恰(あだか)も既に盤石の其の双六に対向(さしむか)ひに成つた気がして、夫婦は顔を見合はせて、思はず微笑えんだ。
※天然の岩が双六の目のようになった「双六谷」という場所を温泉宿の亭主に尋ねたところ、その時座っていた座蒲団(座布団)がちょうど双六のような縞だった、という場面での描写。

[蒲団] 直木三十五 『南国太平記』(1931 昭和6)
白い木綿の下蒲団の上に、甲斐絹の表をつけた木綿の上蒲団であった。その上へ、仰向きになって、眼を閉じた。幾度か枕を直してから、身動きもしなくなった。
※薩摩藩主、島津斉興の家老、調所広郷が服毒自殺をしようとして用意した蒲団の掛け蒲団の描写。

 

[袋] 若松賤子 『黄金機会』(1893 明治26)
疲れ果てるまで跳びまはり升(まし)たあとで、フト思ひつき、母に貰ふた甲斐絹の切で三ツの袋を拵らへに取り掛り升(まし)た。
・・・
かう聞くと共に私の眼めは涙で一杯になつて、例の袋をさぐる手先が見えぬ程でした、それ故父の顔も見ず甲斐絹(かひき)袋のまゝ渡し升と、父は妙なかほつきして暫しばらく其袋を眺ながめて居り升た。

※作者が十一歳の誕生日に、祖父からもらった小遣いをしまうのに作った袋の描写。

[信玄袋] 菊池寛 『貞操問答』(1934 昭和9)
圭子は、今朝判箱を取るために、用箪笥を開けたとき、甲斐絹のごく古風な信玄袋がはいっているのを、チラリと見た。あの中には、貯金の通帳がはいっているはず――あれをそっと持ち出して……。
※主人公、新子の姉、圭子が自分が主演となる舞台の資金が不足しているのに困り、母親の貯金通帳を物色している場面の描写。

 

[人形衣装] 宮本百合子 『悲しめる心』(1892 明治25)
父が京都の方から首人形を買って来て呉れたのをたった一つ「おちご」に結ったのをやった。紫の甲斐絹の着物をきせて大切にして居たけれ共時の立つままに忘れてどこへかなげやられて仕舞った。
※作者が15歳のときに5歳で亡くなった妹の華をしのび、かつて妹に渡した首人形を思い起こしている場面の描写。首人形は土などで作った首に竹串をさしたもので、衣装を着せる遊びなどに使われた。

 

[小裂] 金子みすゞ 『二つの小箱』(作成年不詳 )
紅絹(もみ)だの、繻子(しゆす)だの、甲斐絹(かひき)だの、
きれいな小裂(こぎれ)が箱いつぱい。
黒だの、白だの、みどりだの、なんきん玉が箱一ぱい。
それはみいんな私のよ。

※少女が空想している宝物の入った小箱の中身についての描写。甲斐絹が「きれいな小裂」のひとつとして登場する。

[縫物の生地] 有本芳水 『芳水詩集 赤い椿』(1914 大正3)
赤い椿の花が散る
縁先に出て縫物す
母が手先の針の色。
赤い椿の花びらと
紅(もみ)の甲斐絹のくれなゐと
折折動く白い手と……。

※椿の花が散る縁先で縫物をする母が持っている生地の描写。

[垢すり] 芥川龍之介 『戯作三昧』(1917 大正6)
老人は丁寧に上半身の垢を落してしまふと、止め桶の湯も浴びずに、今度は下半身を洗ひはじめた。が、黒い垢すりの甲斐絹(かひき)が何度となく上をこすつても、脂気の抜けた、小皺の多い皮膚からは、垢と云ふ程の垢も出て来ない。
※舞台は天保二年(1831年)の江戸。神田にある銭湯で体を洗う老人、滝沢馬琴の描写。


最後に、甲斐絹の具体的な布製品としての用途ではなく、作品中の演出装置として、甲斐絹がどんなイメージを担っていたかを少し紹介します。


①上等、立派、綺麗な甲斐絹のイメージ

ポジティブな演出として、登場人物の扮装や立場を引き立てるためなどに用いられたと思われる甲斐絹の例では、次のようなものが挙げられます。

石川啄木 『天鵞絨』(1908 明治41)
※以前よりも服装が立派になっていた髪師の「源助さん」
繪甲斐絹の裏をつけた羽織も、袷も、縞ではあるが絹布物(やはらかもの)で、角帶も立派、時計も立派

落合直文 『甲斐絹』(1890 明治23)
※お世話になっているご主人から預かった大切な甲斐絹
かの御召物はしま柄、地合、いと美麗なり

国枝史郎 『神秘昆虫館』(1940 昭和15)
※いかにも上品な武家の娘のように見える、という装束としての甲斐絹
道行を着てその裾から、甲斐絹の甲掛を見せている。武家の娘の旅姿で、歩き方なども上品にしている。

三遊亭圓朝 『粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分)』(1888 明治21)
※若い女性なら似合うだろうけれども…、という装束としての甲斐絹の脚絆
止せば宜いのに鼠甲斐絹の女脚絆を掛けて、白足袋に麻裏草履を結い附けにして、

国枝史郎 『甲州鎮撫隊』(1938 昭和13)
※主人公の総司が心から愛するヒロインが、初めて登場する場面で身につけている甲斐絹
娘は十八九で、面長の富士額の初々しい顔の持主で、長旅でもつづけて来たのか、甲斐絹(かいき)の脚袢には、

江見水蔭 『死剣と生縄』(1925 大正14)
※男振りがひとしお目立って光る、という装束のひとつが甲斐絹
浅黄甲斐絹の手甲脚半( 中略 )斯うすると竜次郎の男振りは、一入(ひとしお)目立って光るのであった。

国枝史郎 『犬神娘』(1935 昭和10)
※主役級の若く「美しい女」の装束として甲斐絹
甲斐絹の手甲と脚絆とをつけ、( 中略 )美しい女が、そう云ったのでございます。

金子みすゞ 『二つの小箱』(作成年不詳 )
※「きれいな小裂」のひとつとして登場する甲斐絹
紅絹だの、繻子だの、甲斐絹だの / きれいな小裂が箱いつぱい。

②少しネガティブな甲斐絹のイメージ

登場人物があまりパッとしなかったり、あまり好ましくない印象であるときに、少しネガティブな演出としての甲斐絹が使われている例もありました。もしかしたら洋装化の時代に置いて行かれるイメージや、キザな成金のようなイメージが持たれていたとも考えられます。夏目漱石の虞美人草、有本芳水の詩では、甲斐絹自体というより、投げ掛けられた/ぬぎ捨てられた羽織という表現に生気のないイメージがあり、それと対照的なきらきらと光る/鮮やかな赤い色をした甲斐絹の取り合わせが、なにか退廃的な妙味を感じさせているという対比の演出といえるのかもしれません。

夏目漱石 『虞美人草』(1907 明治40)
※(古い時代の象徴?)病気の「井上先生」が着ようとする羽織の裏の甲斐絹
乏しき光線をきらきらと聚める。裏は鼠の甲斐絹である。

樋口一葉 『一葉日記』(1896 明治29)
※少々うさんくさい人物として描写される正直正太夫(別号斎藤緑雨)の甲斐絹
木綿がすりの羽織は着たれどうらは定めし甲斐絹なるべくや

有島武郎 『或る女』(1911 明治44)
※主人公、早月葉子をのちに脅迫し、金をせびり取る人物の衣装としての甲斐絹
興録のほかに三人いた。その中の一人は甲斐絹のどてらを着ていた

有本芳水 『芳水詩集 断章十七  秋の朝』(1914 大正3)
※秋の朝のさみしさを表現した詩のなかでの羽織の描写にある甲斐絹
秋の朝のさみしさ / ぬぎ捨てられた羽織の甲斐絹裏の赤い色が / ちくちくと眼にしむさみしさ


③滑りのよい甲斐絹のイメージ

これは文学的な演出というより、生地の物性としてのイメージといえそうですが、『丹下左膳  乾雲坤竜の巻』『雪之丞変化』では登場人物の行為を描写する小道具として扱われているのが興味深い事例です。『丹下左膳 日光の巻』では「百姓町人」が表立って絹を身につけられないけれど、裏に忍ばせているという様子が描かれています。

林不忘 『丹下左膳 乾雲坤竜の巻』(1927 昭和2)
※喧嘩の際にすばやくすべり落ちるように半纏の裏に張りこんでいる甲斐絹
するりとぬいだ甲斐絹うらの半纒を投網のようにかぶらせて、物をもいわずに組みついたのだった。

三上於菟吉 『雪之丞変化』(1935 昭和10)
※太鼓持の踊りの軽快さがパッチのすべりが良いことに関連づけられている甲斐絹
甲斐絹のパッチの辷りもよく、手ぶり足ぶみおもしろく、踊り抜いて、歓笑湧くがごときところへ、

林不忘 『丹下左膳 日光の巻』(1934 昭和9)
※殿様を出迎える庄屋たちの衣装の描写。絹の袴は履けないけれど、裏についているすべりのよい甲斐絹。
いくら庄屋でも、百姓町人は絹の袴は絶対にはけなかったもので、唐桟柄のまちの低い、裏にすべりのいいように黒の甲斐絹か何かついている、一同あれをはいています


以上、様々な観点から甲斐絹の用途についてお伝えしました。

次回はまた別の角度から文学の中の甲斐絹をご紹介します。どうぞお楽しみに。

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(五十嵐)