JR東日本の新幹線全席などで2025年1月1日より配布される新幹線車内サービス誌『トランヴェール』vol.442で、郡内織物産地の特集記事『山梨ハタオリ初買い旅』 が18ページにわたって掲載されました。
戦前の甲斐絹から現代のハタヤさん、東京造形大学とのコラボ事業『フジヤマテキスタイルプロジェクト』などさまざまなプロジェクトまで、そしてシケンジョも紹介していただいてます。
トランヴェール特集記事はJR東日本公式ホームページからオンラインでも読めますので、ぜひご覧ください!
(五十嵐)
JR東日本の新幹線全席などで2025年1月1日より配布される新幹線車内サービス誌『トランヴェール』vol.442で、郡内織物産地の特集記事『山梨ハタオリ初買い旅』 が18ページにわたって掲載されました。
戦前の甲斐絹から現代のハタヤさん、東京造形大学とのコラボ事業『フジヤマテキスタイルプロジェクト』などさまざまなプロジェクトまで、そしてシケンジョも紹介していただいてます。
トランヴェール特集記事はJR東日本公式ホームページからオンラインでも読めますので、ぜひご覧ください!
(五十嵐)
シケンジョテキで連載している「文学の中の甲斐絹」シリーズを要約した論文が、このたび会員制月刊誌、『民具マンスリー』第57巻9号に掲載されました!
『民具マンスリー』は、発行者である神奈川大学 日本常民文化研究所の公式サイトによると、1968年に創刊された「民具を中心とする物質文化研究をテーマとする雑誌の中では最も古い歴史」を持つ研究誌で、「民具の基礎的な研究の確立と共に、研究者相互の連絡、提携、情報交換等」を目的としています。
このような歴史ある研究誌に、シケンジョテキを登場させていただき、大変光栄です。
ところで「民具」って何なのか、『民具マンスリー』はどんな対象の研究を扱うものなのか?という疑問が浮かぶと思います。
そこで、過去に『民具マンスリー』に掲載された論文タイトルを並べてみました。これを見ると、なんとなくその答えがお分かりになるのではないでしょうか。
七夕人形、椰子文化、履物の緒と鼻緒、豆挿し具、八王子の水車、ワラグツ、アンギンとモジ網、木綿以前の衣料、奥多摩の木馬、イタチ罠、マタバシゴ瞥見、宮崎の大鋸、チャリンコの舟霊、トラバサミ猟、風葬と厨子甕、葛餅製造具、矢立の歴史、漁船と船霊、綿打ち弓
どれも興味深いタイトルですが、この一つに今回、『文学の中の甲斐絹』が加わったという訳です。
『民具マンスリー』に興味のある方は、神奈川大学 日本常民文化研究所の公式サイトに過去掲載論文目次のデータベースや、入会方法、民具マンスリーの入手方法などがありますので、そちらからご覧ください。
また歴史民俗博物館のようなところには蔵書があるかも知れませんので、閲覧希望の方はお近くの施設に問い合わせてみるのも良いでしょう。
もちろんシケンジョにも「文学の中の甲斐絹」が掲載された最新号がありますので、お近くの方はぜひお声掛けください!
(五十嵐)
2024年10月19日(土)から、ふじさんミュージアム(富士吉田市)で企画展、『甲斐絹をよむ #02 「蚕」』が始まりました。
この展示会は、昨年2023年11月~12月にFUJI TEXTILE WEEK
の一環としてギャラリーfujihimuroで開催された『甲斐絹をよむ』展の続編として企画されたものです。今回は甲斐絹の原料となる繭を作る「蚕」にスポットライトを当てた展示が行われています。
これが企画展室のエントランス。
この物体は、蚕が繭を作るための場所、「蔟(まぶし)」。
蚕たちが集合住宅に入居するように個室に入り、それぞれの繭を作ります。
まんべんなく入居してもらえるよう、上に登りたがる蚕の性質を利用して、上の階が一杯になると重さで半回転する「回転蔟」というシステムです。
企画展室には、富士山信仰と養蚕との関わりについてのさまざまな資料が展示されています。
下のマップは明治20年頃の富士吉田。赤い部分はすべて桑畑だったそうです。標高1000mに達する寒冷なエリアでも桑畑が広がっていたことが分ります。
会場では山梨県でも残り少ない養蚕農家のひとつ、アシザワ養蚕で撮影された映像が上映されています。6000年つづく人と虫との約束がある、という芦澤さんの語りが印象的でした。
ここから先は、ミュージアムの建物を出て、敷地内にある「旧宮下家住宅」。この中に、羽織の裏地として使われている甲斐絹の現物が展示されています。
宝永4年(1707)に建てられたと伝えられえている、築300年の木造平屋建ての建物内に、十数点の甲斐絹を裏地に使った羽織が展示されています。
この旧宮下家住宅は、企画展示室とはちがって観覧料も不要で、駐車場から歩いてすぐ見える場所にあるので、気軽に立ち寄ることができます。
昨年の『甲斐絹をよむ』展ではシケンジョで所蔵する甲斐絹の生地見本も展示されましたが、今回の企画展ではシケンジョ以外の甲斐絹が展示されています。
このように裏地が主役になって繰り広げられる展示空間は、世界でも類をみないのではないでしょうか?
魅惑的な光沢や色彩で絹の魅力を放つ甲斐絹の数々を以下、写真でご紹介します。
企画展、『甲斐絹をよむ #02 「蚕」』は、来年2025年1月20日(月)まで開催されています。お近くへお越しの際は、ぜひお立ち寄りください!
甲斐絹をよむ #02 「蚕」
会期:2024年10月19日(土)~2025年1月20日(月)
観覧料:常設展(一般400円、小中高生200円)に含まれる
※会期中、常設展・企画展ともに富士吉田市民無料
※旧宮下家住宅の展示は観覧料不要です。
休館日:火曜日 ※11月19日~26日、12月28日~1月3日は休館
[甲斐絹 関連ページ]
2024年 4月25日 文学の中の甲斐絹 ⑥甲斐絹の風景
2024年 2月19日 文学の中の甲斐絹 ⑤現代語訳で読む、落合直文の小説『甲斐絹』
2024年 1月24日 文学の中の甲斐絹 ④甲斐絹の用途
2023年 10月4日 文学の中の甲斐絹 ③甲斐絹の色彩
2023年 10月4日 文学の中の甲斐絹 ②甲斐絹のオノマトペ辞典
2023年 10月3日 文学の中の甲斐絹 ①文人たちが書いた甲斐絹
2022年 10月21日 DESIGN MUSEUM JAPAN 山梨展「甲斐絹」千年続く織物 “郡内織物”のルーツ
2014年 1月17日 甲斐絹ミュージアムより #10 「白桜十字詩」
2013年12月24日 甲斐絹ミュージアムより #9 「この松竹梅がスゴイ!」
2013年11月15日 甲斐絹ミュージアムより #8 「今週の絵甲斐絹3 ~松竹梅~」
2013年10月31日 甲斐絹ミュージアムより #7 「今週の絵甲斐絹2」
2013年10月25日 甲斐絹ミュージアムより #6 「今週の絵甲斐絹1」
2013年 9月27日 甲斐絹ミュージアムより #5/84年後に甦った甲斐絹
2013年 9月21日 甲斐絹ミュージアムより #4/甲斐絹展が始まります!
2013年 6月28日 甲斐絹ミュージアムより #3 シャンブレーの極致!玉虫甲斐絹
2012年 4月27日 甲斐絹ミュージアムより #2
2012年 4月13日 甲斐絹ミュージアムより #1
(五十嵐)
明治~昭和初期の文学に描かれた甲斐絹を紹介するシリーズ、第6回。
今回は甲斐絹の風景と題して、甲斐絹が織られている当時の風景や様子が書かれた作品を紹介します。
今回見つかった文献のなかには、小説や詩などの創作だけでなく、エッセイや日記のように事実を伝えるノンフィクション的なものがあります。
そのなかでも、正岡子規の『病床六尺』は最も詳しく産地の状況が書かれた作品の一つです。
この作品は、正岡子規が門人の新免一五坊からの伝聞を記したものとなっています。
新免一五坊は『病牀六尺』の前年の明治34年(1901年)から山梨県南都留郡明見村(現在の富士吉田市明見)、そしてその後谷村町(現在の都留市谷村)に滞在していたそうです。
ではその作品の該当箇所を見てみましょう。
正岡子規 『病牀六尺』(1902 明治35)
最晩年の子規が書いた随筆。門人の「一五坊」から伝え聞いた明治時代の富士吉田市(おそらく現在の明見周辺)の様子が語られている。
十七
甲州の吉田から二、三里遠くへ這入つた処に何とかいふ小村がある。その小村の風俗習慣など一五坊に聞いたところが甚だ珍しい事が多い。一、二をいふて見ると、
総てこの村では女が働いて男が遊んで居る。女の仕事は機織りであつて即ち甲斐絹を織り出すのである。その甲斐絹を織る事は存外利の多いものであつて一疋に二、三円の利を見る事がある(注①)。尤も一疋織るには三日ほどかかる(注②)、しかしこの頃は不景気で利が少いといふ事である。一家の活計はそれで立てて行くのであるから従つて女の権利が強くかつ生計上の事については何もかも女が弁じる事になつて居る。男の役といふは山へ這入つて薪(たきぎ)を採つて来るといふ位の事ぢやさうな。
甲斐絹の原料とすべき蚕はやはりその村で飼ふては居るがそれだけでは原料が不足なので、信州あたりから糸を買ひ入れて来るさうな。その出来上つた甲斐絹は吉田へ行つて月に三度の市に出して売るのである。
甲斐絹のうちでも蝙蝠傘になる者は無論織り方が違ふ(注③)。
機を織るものは大方娘ばかりであつて既に結婚したほどの女は大概機を織るまでの拵(こしら)へにかかつて居る。それがために娘を持つて居る親は容易にその娘の結婚を許さない。なるべく長く(二十二、三までも)自分の内に置いて機を織らせる。その結果は不品行な女も少くないといふ事である。
(中略)
前いふたやうに機織の利が多いのにほかにこれといふ贅沢の仕様もないので、こんな辺鄙の村でありながら割合に貧しくないといふ事である。(後略)
※行間が空いているところは、原文で改行のあった箇所です。読みやすいように行間を空けました。
この作品では、伝聞とはいえ、産地の状況が非常に詳細に語られています。興味深い内容ですので、順序を整理し、箇条書きで内容をまとめてみました。
《男女の分担について》新免一五坊が産地内に滞在していたのは明治34年(1901年)から。【メートル綾】はその同じ年に新しく開発されたばかりです。おそらく地元ではそのことが話題になっていて、そのため一五坊をつうじて正岡子規の耳にも入ったのかもしれません。
中村星湖は南都留郡河口村(現在の富士河口湖町)に1884年(明治17年)に生まれた文学者で、今回のシリーズでは数少ない地元出身の作家になります。
とてもタイムリーなことに、山梨県立文学館にて今週末から『中村星湖展』が開催されます。(会期:2024年4月27日(土)~6月23日(日) /生誕140年歿後50年)
中村星湖の生家は、江戸時代からの御師(おし)※の町であった河口村の御師の家系で、農業を営みながら養蚕、生糸商を行っていたそうです。
※御師:富士山信仰の巡礼者に宿坊を提供するなどの世話役であり、また富士山信仰の普及・指導をする役目を持つ人々。
ここで紹介する『少年行』は、故郷の河口村など山梨県を舞台に描かれた小説ですが、生糸を作る工程、機織りの風景や甲斐絹については、事実を伝えるノンフィクション的な描写となっています。
中村星湖 『少年行』(1907 明治40)
斯様(こん)な風に、野は枯れ村もます/\寂れて行く年の暮れから、ずつと雪の下が却つて自分の家の忙しい時節である。生糸を引く家は外にも四五軒あつた。其頃はまだ水車で糸を撚らせる事など考へ附かなんだので、撚車の重いのを母がガン/\廻したものだ。そして撚のかゝつた糸は揚枠(あげわく)へあがるやうな具合になつて居て、揚枠を外して父が多きな綜枠(へわく)(注①)と云うので、四十よみ(傍点)(注②)とか五十よみ(傍点)とか糸の数を定め、長(たけ)を定めて、経糸を綜上(へあ)げるのであつた。
綜上げた経糸は ― 機にする糸に経、緯の区別がある ― 一の日と五の日に吉田と云ふ二里許(ばかり)隔てた町の市場へ背負ひ出して、仲買人の手へ渡したり、つぼ(傍点)(素人)へ売つたりした。
此糸の捌けて行く所は同じ裾野の内でも、下郷と総称して吉田から下つて東の方、谷村や猿橋辺の機織場である。所の者にはさして珍しくは無いが、旅をする何人(たれ)でも偶と通りすがつた藁家の軒に、サヤサヤ/\と静かな調子で、 ― 此辺の機は引梭(ひきをさ)と云ふので、チヤンカラ/\と打つけはせぬ ― 織り進む梭の声を聞いたなら、場所柄だけに、沙漠に妙音を聞く感じがするであらう。よく絵や歌に入れる桃咲く軒端のそれもよいが、雪の静かに降る日なぞには殊に懐かしい惹きつけられるやうな幽韻(ひびき)がする。
一口に甲斐絹と云って了ふものの、絵甲斐絹もある。縞甲斐絹もある。白無地もあり黒無地もあり、綾物もあれば綾でないのも、五裏だとか何だとか、それ等は皆、裾野の乙女達の手になるのです。そして骨細で百姓の出来ない者で、小金の廻る者は ― やはり甲斐絹にも生糸と同じで市がたつた ― 市場へ出て仕入れたり、つぼから頼まれたりして、方々の国へ、所謂甲斐絹商人となつて廻つて行く。
この引用した箇所では、前半に糸づくり、後半に機織りや市のことが書かれています。
書かれたの1902年(明治35年)で、正岡子規の『病床六尺』(1907年 明治40年)の5年前になります。
糸づくり、機織り、市について、それぞれ書かれている内容をまとめてみました。
《糸づくりについて》
●糸を撚るのは人力の撚車であり、水車の利用はこの後の時代に始まる。
●糸は「経枠で経糸を綜上げる」とあり、経糸に使われる糸を作っていた。…注①
●四十よみとか五十よみなど糸の数を定め、長さを定めて、経糸を準備する。…注②
●糸を作る時点で経糸と緯糸の区別があり、生糸商は経糸用、緯糸用の糸として市に出していた。
●描かれている糸づくりの舞台は、吉田から二里ほど離れた河口村と思われる。
●作られた糸は一の日と五の日に吉田の市で売られ、仲買人や「つぼ」と呼ばれる素人(一般消費者か)の手に渡る。
《機織りについて》
●作られた糸で機織りをするのは、谷村(現 都留市)、猿橋(現 大月市猿橋)にある機場。
●「引梭(ひきをさ)」(=引き杼)は使わず、おそらく投げ杼で、「サヤサヤと」静かな調子で織っていた。
●織られるのは甲斐絹であり、その中には絵甲斐絹、縞甲斐絹、無地甲斐絹(白、黒)、綾物、五裏(いつうら)などがある。
●それらの甲斐絹は、裾野の乙女達が織っている。
《市について》
●一の日と五の日に、吉田で経糸を売り買いする市が立つ。
●生糸と甲斐絹、それぞれの市がある。
●「骨細で百姓の出来ない者」、「小金の廻る者」(=資金力のある者か)が「甲斐絹商人」となって、市場で甲斐絹を仕入れたり、素人(つぼ)から頼まれたりして、ほうぼうの国へ廻っていく。
経枠というのは、2010年代まで富士吉田市内でも見られた「濡れ巻き整経」の工程で使われる道具です。下の写真で回転しているのが経枠です。
注② 「よみ」、「綜上げる」
よみというのは、経枠で経糸を巻くときの糸の本数の単位です。「算」と書いてよみと読みます。ひとよみ=経糸80本=40ワナで、ひとワナ=経糸2本となります。
ひとワナは、下の図のように糸1本の一往復分(ひとワナ)が経糸2本となる単位です。
上の写真のように経枠の円周をぐるぐると螺旋状に巻かれて、端まで行ったら綾を作り(1本ずつひねってX字に交差させて棒に通し、糸の順番を保持する)、折り返して螺旋の上を戻りながら巻かれていきます。その一往復で、1ワナが出来上がります。
「綜上(へあ)げる」という言葉は現在では耳にしないので、調べても正確なところは分かりませんが、おそらく文脈上、経玉(へだま)と呼ばれる経糸の状態(下の写真)を作ることを指しているのかと思われます。
上の写真の経玉は、『少年行』文中にもある「四十よみとか五十よみ」(=3200~4000本)と同程度の本数の経糸がまとめられたものです。
この状態で経糸は市に出されて取引されたそうで、そのあと染色、整経工程を経て機織りに使われることになります。
濡れ巻き整経では、経玉ひとつを1カケラといい、通常2カケラ~5カケラでおまき1本が作られます。ちなみに数え方は「ヒトカケラ/フタカケラ/ミッカケラ/ヨッカケラ/イツカケラ」です。
濡れ巻きについての詳細は、シケンジョテキバックナンバーをご覧ください。
濡れ巻きサテンの輝き 2012年10月9日火曜日
濡れ巻き技術保持者、経枠職人の渡辺勝彦さん 2012年3月12日月曜日
濡れ巻き技術保持者、武藤うめ子さんの組み込み作業 2012年3月13日火曜日
濡れ巻き技術保持者、武藤うめ子さんの機巻き 2012年3月14日水曜日
濡れ巻きツアー 経枠職人編① 2011年12月9日金曜日
濡れ巻きツアー 機巻き職人編② 2011年12月12日月曜日
濡れ巻きツアー 機屋編③ 2011年12月13日火曜日
中村星湖は民俗学にも関心を持ち、民俗学者の柳田国男とも交流があったそうです。『少年行』のストーリーとはあまり関連のない詳細な描写には、故郷を客観的に民俗学的な視線でとらえ、その姿を伝えようとする面があったかもしれません。
また事実を客観的に描写するだけでなく、旅人が通り過ぎる家から機織りの音がもれ聞こえるのを聞く、という文章では、「雪の静かに降る日なぞには殊に懐かしい惹きつけられるやうな幽韻(ひびき)がする。」とあり、美しいことばで甲斐絹の織られる風景を描写しているのが印象的です。
また甲斐絹とは関係ありませんが、『少年行』冒頭には次のような湖についての描写があります。
「裾野を取り巻いて(中略)、山中、明見、河口、西、精進、本栖の湖水が散在して」
ここでは明らかに現在の富士五湖(山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖)のことを書いていますが、自然に「明見湖」が加えられ、「富士六湖」として並べられていることにお気付きでしょうか。
実は私たちが当たり前に使っている「富士五湖」という言葉や概念は、明治40年当時にはまだ無かったようです。
「富士五湖」という表現が広まる契機となったのは昭和2年、「新日本八景」(東京日日新聞・大阪毎日新聞共催)の選定において、富士山麓電気鉄道(現在の富士急行)の創始者として知られる堀内良平氏が「富士五湖」という呼称を提案したときだったようです。そして新日本八景では「富士五湖」が見事に湖沼の部日本一に輝いた、という逸話が残っています。
柳宗悦は、美術評論家、思想家であり『民藝運動』の主唱者として知られます。ここで紹介する作品『手仕事の日本』は日本各地の民芸品を紹介するガイドブック的な内容なので、「文学の中の甲斐絹」というシリーズでは少し変わり種です。
民藝の父と呼ばれる柳宗悦の手で、短いながら甲斐絹を評している文章があるというのは特筆すべきことではないでしょうか。
柳宗悦 『手仕事の日本』(1948 昭和23)
勝山城のあった谷村町は「甲斐絹」の産地として名があります。この絹織物は薄手で密で、艶があり滑かさがあり、特に裏地には適したものであります。風呂敷にも好まれました。
有本芳水は「少年詩」の開拓者と言われます。彼の書いた少年向けの抒情的・感傷的な旅の詩は、雑誌『日本少年』で連載され、絶大な人気を博していたそうです。
その連載をまとめた『芳水詩集』に収められた作品『甲斐より』では、甲斐の国の様々な風景を描いた詩の一節に、甲斐絹の風景が登場します。
梨の花散る六月の
甲斐はよき國歌の國
透いても見ゆる白壁に
日は酒のごと濁り来て。
・ ・ ・
甲斐絹織るなる少女子(おとめご)の
涼しき歌と筬の音は
灯ちらつく家家の
ちさき窓より洩るるかな
富士山の麓では日が暮れたあと、若い娘たちがそれぞれの家で、歌を歌いながら手機で甲斐絹を織っているという風景がかつて存在し、またそれが日本中の少年少女の心に美しい言葉でこうして届けられていたのだ、ということが伝わってくる作品です。
小島烏水(うすい) 『不尽の高根』(発行年不詳 )
四 富士浅間神社
吉田だけは、江戸時代から、郡内の甲斐絹の本場を控えて、旅人の交通が繁かっただけあって、山の坊のさびしさが漂うと共に、宿場の賑わいをも兼ねて見られる。
十 八ヶ岳高原
甲斐絹、葡萄、水晶の名産地として、古くから知られた土地ではあるが、甲斐を顕揚するものは、甲斐の自然その物であらねばならぬ。
種田山頭火 『旅日記』(1936 昭和11)
甲府まで汽車、笹子峠は長かつた、大菩薩峠の名に心をひかれた。
甲斐絹水晶の産地、葡萄郷、安宿は雑然騒然、私のやうな旅人は何となくものかなしくなる、酒を呷つて甲府銀座をさまよふ。
中里介山 『大菩薩峠 駒井能登守の巻』(1918 大正7)
「なんしてもこの通りの山の中でございますから、景色と申しても名物と申しても知れたものでございますが、そのうちでも甲斐絹と猿橋、これがまあ、かなり日本中へ知れ渡ったものでござりまする」
「そうだ、猿橋と甲斐絹の名は知らぬ者はあるまい、その猿橋ももう近くなったはず」
中里介山 『大菩薩峠 安房の国の巻』(1921 大正10)
けれども、その甲州話も、政治向のことや勤番諸士の噂などは、おくびにも出ないで、甲州では魚を食べられないとか、富士の山がよく見えるとか、甲斐絹(かいき)が安く買えるとか、そんな他愛のないことばかりでしたからお角は、この殿様がどうしてかの立派な御身分から今のように、おなりあそばしたかということを尋ねてみる隙がありませんでした。
中里介山 『大菩薩峠 鈴鹿山の巻』(1914 大正4)
「ちっとばかり内職をやっているものでございますから」
「内職を? 何か反物でも商いをなさるの」
「へえ、まあそんな事で」
「そう、そんなら今度ついでの時に、甲斐絹(かいき)の上等を少し見せてもらえまいかね」
「よろしゅうございます、持って参りましょう。時にお師匠様」
国枝史郎 『蔦葛木曽棧』(1922 大正11)
「妾わたしなどよりあなたこそ、こんな辺鄙な山里へ、何んでおいでなされました」
不思議そうにお銀は訊いた。
「はい、そのことでございますか、実は故郷(くに)の名産の甲斐絹(かいき)を持って諸方を廻わり、付近(ちかく)の小千谷(おぢや)まで参りましたついで、温泉(いでゆ)があると聞きまして、やって参ったのでございますよ」
津島美知子 『回想の太宰治』(1978 昭和53)
内織というのは家族や知人の個人用として特別に機にかけて織ったもののことで、昔からいわゆる甲斐絹の産地で機業の盛んな郡内(富士山の北側の桂川沿岸地方)では、つてがあれば織ってもらえることを私は見聞きしていた。十字絣か、二色の縞くらいの簡単なものしか出来ないけれども、素朴なよさがあり、もちがよいという定評もあった。。
[甲斐絹 関連ページ]
2024年 4月25日 文学の中の甲斐絹 ⑥甲斐絹の風景(五十嵐)
ここのがっこうの修了展、『coconogacco exhibition 2024 in Fujiyoshida』の初日、2024年4月13日の17時45分から、都内からチャーターバスで訪れたファッション業界の方々、ここのがっこうの受講生のみなさん、地元の方など約60名を対象にトークショーが開催され、登壇してお話しさせていただきました。
トークショーは、ここのがっこうの主宰、山縣良和さん、ここのがっこう講師でもある、家安 香さん、そしてシケンジョの五十嵐の3名で行われました。
上の写真の背後に写っているFUJIHIMURO(旧製氷・貯蔵所)をはじめ、旧山叶(元機料品販売会社)、旧糸屋、旧喫茶ニコルなど、富士吉田市内の歴史あるさまざまな場所に展示されたここのがっこうの受講生による作品、そして産地生地展「Yamanashi Textile Index」を巡ってきた方々が、帰路のバスに乗車する直前、夕暮れ空の下で集まり、トークショーが行われました。
録音もなかったのでトークショー全体は難しいのですが、自分がお話しした部分だけならテキストで再現することができるので、また富士吉田でその日に人々が集ったことの意義について産地側の視点から改めてお伝えできたらと思い、五十嵐パートを講義録の形でここでご紹介させていただければと思います。
以下、coconogacco exhibition 2024トークショーで話した内容を、記憶を頼りに再構成したものです。
まず、ここのがっこうの修了展の場として富士吉田産地を選んでいただいた山縣良和さん、そして山縣さんのお招きに応じてお越しいただいた皆様にお礼を申し上げます。
この地で皆さんとこうしてお会いしていることの意味を、どのように捉えることができるかを、私なりにお話ししたいと思います。
いきなり飛躍した話題からになりますが、ジミ・ヘンドリクス&エクスペリエンスの三枚目のアルバムに『AXIS : Bold as love』というのがあります。このタイトルのBold
as loveという部分はともかくとして、AXIS とは何のことだろう、と思って調べたことがありました。
すると、比較神話学のなかで使われる「世界軸」という言葉があり、どうやらジミヘンのAXISは、それを意識したものらしいということが分りました。
世界軸とは、world axis、cosmic axis などとも表され、世界各地の神話の中に共通して現れる要素の一つであるそうです。世界軸が何の軸かというと、それは人間世界と天上界、神々の世界を繋ぐ軸であって、世界の中心軸としても捉えられるものであると。
それらが具体的にはどんなものなのかというと、例えばそれはある地域では世界樹という巨大な伝説上の木として現れ、北欧では夏至まつりで使われるメイポールという高い木の棒がそれであり、またメキシコやエジプトで建造されたようなピラミッド、高い塔なども世界軸にあたるとされています。
そうした事例のなかで、富士山も世界軸の一つだ、という記述があったことに驚かされました。
高い山が信仰の対象になるのは、世界軸という観点からも説明できるのだと。ジミヘンのアルバムタイトルから始まった調べ物が、地元につながった瞬間でした。
確かに富士山は、昔から信仰の対象で、富士山頂に向かうというのは神の世界に近づくことでもあったろうと思います。またこの富士吉田は、織物の街である前から、じつは富士山信仰の巡礼地として栄えてきました。江戸時代にも、今日の皆さんのように富士山を目指して人々が訪れていたわけです。
富士山とはそういう意味で神の領域であって、そしてこの街は、人間の世界と神の世界の境界に位置しているとも言えます。
今日、皆さんは東京を出発して、こちらに向かっていくうち、だんだん大きなビルが減り、建物が少なくなって緑が増えていくのを見ながら、やがて山に囲まれたこの街に到着したと思います。ここからさらに富士山の方へ向かうと、あと3キロも進めばついに建物はなくなって動・植物だけの世界になり、さらに上ると、岩だらけの草木も生えない世界になります。
この街は地理的にも、東京から見ると、ここから先にはもう何もない、という人間社会の端っこであり、いわば辺境であると言うことができると思います。皆さんは、東京という人間世界の中心から、その端っこの辺境までやってこられたのだと。
地理的に見ると周辺の辺境でありますが、それは人間世界と、神の住む世界の境界でもある、ということが興味深いと思っています。
辺境というと地元の方に怒られてしまいそうですが、決して悪い意味で言っているつもりはありません。辺境だからこそ、このような展示が行われるのにふさわしいのだろうと考えています。
というのも、実は3月末に、ここのがっこうの講師をされている江本伸悟さん、受講生の川尻優さんをお招きして、ここのがっこうについて学ぶセミナーを開催しました。そのなかで江本さんが、ここのがっこう論、そして山縣良和さんのクリエーション論を語ってくれ、その内容がとても印象的で感動しました。
そのときの山縣さんのお話しでは、山縣さんの過去のファッションショーとして行われた「ゲゲ」という妖怪たちのファッションショー、戦死者のための「After Wars」、魔女をテーマにした「For witches」などが語られました。
それら妖怪、死者、魔女のような存在は、人間社会に居場所のなくなった、周辺にいるものたちです。平均的な大多数の人間像である中心的な存在ではなく、辺境といってもいい位置にいるそういう人たちのための服を作ることをとおして、山縣さんは新しいファッションを目指しているのだと。
そんな山縣さんが、地理的な辺境、神話的な境界に位置するといえるこの富士吉田を選び、辺境からここのがっこうの発信をするというのは、とても腑に落ちる、意味があることのように思えます。
最初にこの街でここのがっこうの展示が行われたのは2021年で、その時のテーマは「クリエーションの分解」でした。クリエーションを分解するということで、制作物だけでなく、制作の過程も紹介する展示でした。イベント全体で分解という言葉がキーワードになっていて、その言葉が今でも気になっています。
その時のトークイベントの中でも語られたことだったと思いますが、生態系のなかの分解についての話がありました。
生態学では、植物のことを独立栄養生物、と呼ぶことがあるそうです。生物のなかでも無機物から有機物を作ることのできる存在が植物で、それが独立栄養生物だと。そして植物を食べ、植物の作る有機物に依存している生き物が、従属栄養生物と言われます。私たち動物や昆虫などがそうです。どちらも聞きなれない言葉ですが、いまは理科で習う言葉だそうです。
そして生態学では、独立栄養生物のことを「生産者」、従属栄養生物を「消費者」とも呼ぶそうです。生産者、消費者というと、ファッションの業界でも同じ言葉を使います。
しかし生態系では、生産者と消費者のほかに「分解者」がいて、生物の死骸や排泄物を分解し、もういちど無機物に戻して、植物がそれを利用できるようにする。ファッションにおいても、そういう分解者という存在が必要だというのが、近年のリサイクルやSDGs、サステナビリティという文脈のなかでも登場して、世界の大きなトレンドになっていると思います。
ここで思ったのは、そういう意味の分解だけではない、別の分解もあるのではないか、ということです。
先日の江本さんのセミナーで伺ったお話しのなかでは、ここのがっこうでは例えば「スカートとはなにか?」という問いかけが行われるということを知りました。丈がどれだけ短くなったらスカートではなくなるのか、紐みたいに細くなってもスカートなのか、というような。
それは違う言葉でいうと、スカートという概念を分解していく作業なのではないでしょうか。スカートとはなにか、服とはなにか、ファッションとはなにか。そういう概念をもう一度問い直し、あらためて定義する作業も、分解というのではないでしょうか。
他にも分解というのは、例えばいま私たちがトークショーでお話ししているように、何かを読み解いて解説したり、キュレーションをしたりということも、概念をときほぐして分かりやすくするというような、分解と言える行為ではないかと思います。
そして、今回展示されているような、ここのがっこうの受講生たちの制作も、作るという行為ではあるけれど、じつは分解から始まっているのではないか。さらにいえば、分解と生成がひとつのものになっているのではないか、そんな風に感じました。
そして、会場となったこの街の施設も、同じような意味で分解されているのではないかと感じました。
たとえば毎年展示を重ねていくなかで、昨年会場だった場所が今年は使えなくなった、ということが起こります。それは、会場だった空き家にテナントが入ったり、別の使われ方を始めたりしているためです。
かつては廃墟のような誰も使わない場所だったとところが、ここのがっこうの展示によって新たな役割や意味を与えられ、何の役にも立たない空き家、という存在から、違う意味をもったものに変化している。
それは元々の概念を分解されて、何かが新しく生成されたとも言えるのではないでしょうか。そういう意味で、街がこの展示によって分解され、再生成されている。そういう風にも見ることができるのではないかと思います。
そして先ほど、年々、受講生たちが街の空間とフィットして、レベルが上がっているというお話しがありました。それは、受講生たちがその分解という行為を通して、いわば街を食べ、自分の中に取り込むことで、自分も変化していった。その結果、街とのマッチングが高まっていった、という風にも捉えられるのではないかと思います。
この街はかつて、いわば作るだけの場所でした。しかし近年、機屋さんたちはただ作るだけの存在ではなく、新たに価値を生み出し、それを伝え、消費者にまで届けるための言葉を紡いでいくような存在へと変わってきました。
それまでやらなかったことをする存在になっていくためには、新しいことを学ぶことが必要です。この十数年は、産地はそうした新しいことを学ぶフェーズであったという気がします。
だからこそ、コラボを続けている東京造形大学や、ここのがっこうという学びの場とも親和性が高いのかも知れません。
今後の未来も、家安さんがかつて言ってくれた「クリエイティブな未来都市」という言葉に相応しいものとして、作るだけでなく学ぶことのできる場として発展していく未来であるような気がします。
辺境という言葉でこの街を表してしたことを地元の方が気を悪くなさらないと良いのですが、自分は辺境というのはとても重要な場所だと思っています。生物の進化でも、周辺においやられたものから新しい進化が起こるという例があるようです。
一般的には、ファッションやトレンドというのは文明の中心地で生まれて、それが次第に周辺に伝播していくと思われがちだと思います。しかし、家安さんや山縣さんがこの土地について、新しいものが生まれる場所としてふさわしいのだと、いつも示してくださっていることに非常に勇気づけられています。新しいものは中心で生まれるのではなく、辺境でこそ生まれ得るのだと。
辺境というのは英語でFrontierと言いますが、同時にFrontierには「最先端」という意味もあります。辺境とは最先端であり、新しいことが起こる場所なのだと。
ぜひこの辺境であり最先端でもあるこの富士吉田に、これからも視線を注いでいただければありがたいです。
今日はありがとうございました。
(五十嵐)