2022年3月31日木曜日

「デザインとは何か?」 ~遊びとアート・クラフト・サイエンス~

「デザインとは?」

デザインとはなんでしょうか?

デザインの定義を検索すると、様々な定義や名言が見つかりますが結局いくら調べても何がデザインなのかはっきりしない、と感じることが多いような気がします。

「デザインとは何か?」という問いは難題ですが、しかし前々回の「遊びと仕事の境界線」で紹介した「遊び」の概念を補助線にしてみると、少し糸口が見えてくるようにも思えました。

そこで、今回は「遊び」について考えた延長線上のシリーズで、「デザインとは何か?」について考えてみようと思います。


まず「デザイン」という言葉の意味がはっきりしないのは、いま私たちはあまりに様々なものに対して「デザイン」という言葉を使っているからではないかと思います。

「街をデザインする」「暮らしをデザインする」「キャリアをデザインする」などなど。

また「デザイン」という言葉は、「デザインされたもの」を指すときもあれば、「デザインするという行為」そのものを指すこともあります。

ここではひとまず「デザインするという行為」とはなにか?に絞って考えます。


まず『デザインする』と言うのはどんなときかから考えていくことは、あまりに広くなって何もわからなくなりそうに思えますのでやめておきます。

そのかわり新しいアプローチとして、逆に『デザインする』と言わないのはどんなときか?を考えてみました。

そうすると、次の3つに絞られるのではないかという仮説が生まれました。



*『デザインする』とはわないとき

 ①何の役にも立たないものを作るとき

 ②すでにあるものと全く同じ何かを作るとき

 ③意図しない(偶然などの結果)で何かが作られるとき



そうすると単純に、それ以外のときが「デザインする」と言える行為だと考えて良いのではないかと思います。

そこで①~③で言っていることを逆にすると、こうなります。


*『デザインする』と言うとき

 ①何らかの目的のために 今までにない何かを ③意図して作るとき


これでとりあえず「こういう時に『デザインする』と言う」という定義ができました!


次に、そのとき具体的には何をどうしているのか?、ということを掘り下げていきたいと思います。

とりあえずの定義①~③を分解していきます。

*「①何らかの目的のために」

「目的」という言葉は、曲者です

「何かの目的のため」に最適化したり、課題を解決することも「デザインする」と言いますが、その目的はそもそも適切なものなのか?、と問う視点がとても重要だと思います。

{なぜ重要だと思うのかの説明はまだうまくできませんが、次の「②今までにない何かを」「今までにない」をどうとらえるかと結びついているような気がしています。)

多くのデザイナーは、その目的さえも疑い、より本質的な本当の「目的」を見極めようとする行為こそデザインの神髄だ、と思うのではないでしょうか。

目的をめぐる架空の参考事例を紹介します。

①「新製品を企画する」という目的がチームに与えられた。

②なぜその目的なのか?を突き詰めていくと「既存製品を並べたとき見栄えがしないので、新規性を持たせる何かが欲しかった」という理由だとわかった。

③それなら「既存製品が並んだときの見栄えをよくする」ということがより正しい目的ではないか、とも考えられる。

④「なぜ見栄えがよくないか」を分析して改善方法を模索していくうち、既存製品の整理整頓が進み、足りないもの、余計なもの、修正すべきものが見えてきた。

⑤既存製品を取捨選択し微調整するだけで見栄えがずいぶんよくなり、新製品をつくらなくても当初の目的が達成した。

⑥それよりも、振り返ってみるとこの過程で「自社が作るべきもの」の像が明確化していき、もしかすると、これがこのプロジェクトの本当の目的だったのかもしれない、と思えた。

⑦そしてついに「どういう新製品が必要か」が見えてきて、次の「新製品を企画する」という目的設定ができた。目的①と同じだが、最初の時とは見えている風景が全く違っていた。


このように突き詰めていくうち、目的が次々に更新される動的なプロセスが生まれて前進していくという事例は珍しくないと思います。

目的に向かって動き出す前にその目的の解像度を上げ、また場合によってより適切な目的に更新し続ける作業、そして目指している当面の目的以外に、振り返ってはじめてわかる目的があることも想定すること。それらを含めて取り組むことが、何かの目的のために行う行為である「デザインする」の重要な要素ではないかと思われます。


*「②今までにない何かを」

「②今までにない」というのも、厄介な言葉です

それは、何が今までにないのかは、とらえ方によって内容が大きく変わるためです。

 例:ある製品の… 色 < 模様 < 形状 < 構造 < 目的 < 使われ方 < 概念そのもの

「ある製品について今までになかった色」を新しく決めるだけでも「デザインする」と言えますが、多くのデザイナーは「今までにない」の範囲をより広く、より深く突き詰めることこそデザインの真骨頂だ、と考えるのではないでしょうか。

場合によっては、「今までになかった色」のレベルが高すぎて、製品の使われ方や顧客層をを大きく変えることのなった、という場合もあるかもしれません。

Appleによる初代iPhoneのデザインは、「今までにない」携帯電話の姿を突き詰めて、スマートフォンという今までにない概念そのものを作り出した例といえるでしょう。

目的のために「今までにない」度合いや範囲を広げたり、違う方向に進むことは、クライアントとの摩擦が生じたり難しい作業になりますが、良いデザインを行うためには重要な要素だと思われます。

また、厳密には「今までにないけれど、今までより良くないもの」を作りだすことを通常は「デザインする」とは言わないはずなので、「今までにない(今までよりも良くするための)何か」であることが言外に含まれると思います。


*「③意図して作る」

「③意図して作る」という箇所は、デザインするというのは具体的に何をすることなのか、にあたります。

この言葉について考える前に、紹介したい新しい概念がありますので、ここでいったん保留し、そのあとで考えたいと思います

その概念が「アート」、「クラフト」、「サイエンス」の3つです。


アート、クラフト、サイエンス

「アート」、「クラフト」、「サイエンス」の3点セットは、『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?』(山口 周[著] / 光文社[刊])で紹介されたことでよく知られるようになった言葉ではないでしょうか。

曰く、経営とはこの三要素が混ざり合ったものであるべきで、アート(直観)、クラフト(経験)、サイエンス(分析)、それぞれを担う人材とそのバランスが必要だというものです。

もとはヘンリー・ミンツバーグという経営学者がMBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方ヘンリー・ミンツバーグ[著] / 日経BP[刊])で提示したものだそうです。私は『超相対性理論』というポッドキャストでこの言葉を知りました。

---> 『超相対性理論』#1~3 「我々は数字の奴隷から脱却できるのか」


このコンセプトを知ったときに、これは経営に限らず、人間の創造的活動全般について言えるものではないか?と考えました。

また、この3つと「デザイン」はどういう関係になるのだろうか?、と考えたことが今回の投稿内容を考えたきっかけになりました。


そしていろいろ考えた結果、デザインするとは何か?を考える材料としてこのアート、クラフト、サイエンスという概念が使えるのではないか、と思い至りました。


まずアート、クラフト、サイエンスは、下の図のように、人間の広範囲にわたる活動を3つに分類する幅広い概念として考えたいと思います。



円錐形に描いたのは、これらが砂時計の砂のように積み上げられていくものなのだろう、ということと、すそ野をたどっていけば全てが一つに回帰するものなのだろう、という自分なりの直観が込められています。

例えば、3つのうち「アート」という言葉は、古代にはより広い意味で使われていたので、いまでもその名残があります。

人文科学、社会科学、自然科学教養一般をさす「リベラルアーツ」は、サイエンス「アート」と呼ぶ例です。

同様に、武芸、武術をさす「マーシャルアーツ」身体を使う技術なので上の図ではクラフトにあたりますが「アート」呼ばれています。


「何の役に立つの?」問題

 アート、クラフト、サイエンスと「遊び」

ここで注目したいのは、アート、クラフト、サイエンスはそれぞれ、「それが何の役に立つの?」と言われがちなものでもあることです。


 アート →「こんな意味不明な絵、誰が欲しがるの?」

 クラフト →「すごい超絶技巧のお皿だけど、誰がいつ使うのコレ?」

 サイエンス →「そんな遠くにある星のこと調べて何の役に立つの?」


こういう言葉はいろいろな場面で耳にすると思います。

ではなぜアート、クラフト、サイエンス「何の役に立つの?」と言われがちなのか?


それは、アート、クラフト、サイエンスが、『遊び』として誕生したものだから、という仮説を提唱したいと思います。


前々回の「遊びと仕事の境界線」で紹介したカギかっこ付きの『遊び』は、自己目的的で、外部に目的がなくても存在し、それ自体が目的であり、楽しみであり、もっと言えば人間に備わった創造力が最大限に発揮できる場だとして紹介しました。

「それが何の役に立つの?」という質問が当然のように口にされる背景には、「何かの役に立つものだけが素晴らしいのだという意識があるのではないでしょうか。

『遊び』の重要性について考えたあとでは、「何かの役に立つかどうか」だけで存在価値が測られる考え方というのは、効率や生産性が重視される現代社会が生んだ、偏った、危なっかしい思想であるように思えます。

歴史をひもとくと「何の役に立つか分からないが、惹かれてしまう、やらずにはいられない」という人々の情熱や好奇心の積み重ねが、人類を救うような発明や発見、生きる喜びにつながった例をたくさん見つけることができるでしょう。

そのような『遊び』として人類が始めた活動が、長い年月のなかで積み重なって文明・文化を発展させアート、クラフト、サイエンスという『遊び』の3側面として現れたのだと考えたいと思います。

『遊び』という要素がアート、クラフト、サイエンスの本質的な姿であり、人間のエネルギーを引き出す動力源であるという認識から、ここではアート、クラフト、サイエンス『遊び』を、ロケットその推進力になぞらえて図を描きました。


アート、クラフト、サイエンスが指向性を持つとき


本来自己目的的な性質を持つアート、クラフト、サイエンスですが、もちろん人間はそれを何かの目的のために道具としても使いこなしてきたという、もう一つの仮説をここで提案したいと思います。

レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナリザ」を描いたときを例にしてみてみます。

絵画は狭い意味では「アート」ですが、解像度を上げて見てみると、その制作プロセスにはアート、クラフト、サイエンスが使われていると考えられます

ダ・ヴィンチが「モナリザ」を描いたときには、「こういう絵が描きたい」というアート的なビジョンの生成があり、それを現実化する過程では卓越した油絵の技術というクラフト的な能力が使われ、また最先端の顔料の活用のほか、伝統技法よりも自然観察に基づく知見を優先した空気遠近法や輪郭線をぼかす技法などサイエンス的な知見が用いられたと思われます。

このうように考えると「モナリザ」の制作プロセスは、絵画作品を作るという目的のために、アート、クラフト、サイエンス調和させる作業だったと言えます。

ミンツバーグは、「経営する(=継続的・発展的に収益事業を行う)という目的のために、アート、クラフト、サイエンス調和させよ、と説きました

「デザインする」というのも、目的のためにアート、クラフト、サイエンス調和させる行為だと言っても良いと考えます


この稿のはじめの方で「デザインする」とは、何らかの目的のために 今までにない何かを ③意図して作ること」と書きました

そして、さきほどは何らかの目的のために 今までにない何かを」 については具体的に記述しましたが、「③意図して作る」については保留し、先に話を進めました。

これも具体化していきたいと思います。


「意図する」というのは、辞書を引くと、ある目的のために何かを実現しようと取り計らうこと」というようなことが書いてあります。

ある目的のために何かをの部分は、すでに①、②でカバーしていますので、残りは「実現しようと取り計らう」です。

ここでは実現しようと取り計らう作業とはつまり何なのかを具体化すると、それこそアート、クラフト、サイエンスを調和させて作ることだという風に翻訳してみたいと思います。

そうすると「デザイン」の定義は次のようにバージョンアップできると思います。


*『デザインする』とは

何らかの目的のために 今までにない何かを アート、クラフト、サイエンス調和させて作ること

比喩的に表現すると、「デザインする」という行為は、『遊び』を燃料とするエンジン、アート、クラフト、サイエンスのバランスをとりながら操縦し、目的地に向かうため、今までにない航路を行く旅だとも言えます。

ちなみに上の図で目的地の惑星を点線でうっすらと描いたのは、さきほど書いたように目的が絶対ではなく、当面の目的に向かうプロセスが中心であることを意識してそうしました。


メタ視点

先ほど何かの目的のためにの説明の部分で、「デザインする」というときには、「目的ありきの課題解決だけでなく、「目的そのものも疑い、更新し続けること、また今までにない」度合をどこまでの範囲にするか、というそもそものパラダイムを扱うということについて書きました

このような、「その目的って、どれだけ妥当なんだろう」、「議論の中身より、議論の枠組み自体が間違っているんじゃないだろうか」と問うような思考方法は、かいつまんで言うと、つまり「メタ視点を持つ」ということだと思います

前提そのものを疑いの対象とするような「メタ視点を持つ」という要素は、より客観性を高めて真実に近づこうとする態度であるという意味で「サイエンス」的な知的活動だと言えると思います。

一方、先ほどの初代iPhoneの例は、おそらく「サイエンス」的な論理的思考や数値の分析だけでは到達できないゴールに、新しいビジョンを描くことで到達したであろうという意味で「アート」的な側面の強いデザインが行われたのだとも言えると思います。


さらに考えていくと、アート、クラフト、サイエンスを調和させるには、「自分がいまやっている作業はアート、クラフト、サイエンスのうちのどれなのか?」という俯瞰が必要になるので、それには常に「メタ視点」を意識することが必要なります。

先ほど提示したデザインの定義「①何らかの目的のために 今までにない何かを アート、クラフト、サイエンス調和させて作ること」の中には、「メタ視点」という言葉は入っていませんが、それは言外に含まれていると考えても良いのではないかと思います。


その他のとらえ方

アート、クラフト、サイエンスという普遍的な概念を使うと、創造的行為をモデル化する他の方法も考えられます。

ハタオリマチのハタ印ディレクターでアーティストの高須賀活良さんは、次のようなモデルを構想しているそうです。



クラフトテクノロジーと読み替え、テクノロジーサイエンス身体頭脳の現れ
(=
知行)とし、両者が合一してアウトプットするものすべてが
アートである、という考え方です。

この図にはデザインは書かれていませんが、仮説提案や推論などに基づくサイエンス的な頭脳の行為であるとされています。


アート、クラフト、サイエンスを身体と頭脳の2つに分けて考えると、クラフトを身体、アート、サイエンスを感性と知性、ととらえる次のような考え方もあるかと思います。




おわりに

ここまでの流れから、デザインの定義として「①何らかの目的のために 今までにない何かを アート、クラフト、サイエンス調和させて作ること」を導き、提唱しました。

このうち何らかの目的のためにを取ってしまうと、それは外部に目的をもたないので、今までにない何かを作る『遊び』になるかもしれません。

デザインの定義のうち「②今までにない何かを 」を取ってしまえば、それはミンツバーグのいう経営など、普通あえてデザインとは言わない活動になるでしょう。

①~が3つとも揃う活動は極めて幅広い範囲に及ぶと思いますが、その全てがデザインという行為の対象なのではないかと思います。


前々回の「遊びと仕事の境界線」では、ふつう『遊び』ではないと思われる仕事の中にも、考え方や取り組み方によっては夢中になれる『遊び』を見いだし、楽しみに変換することができる、ということを書きました。

同様に考えると、明確な目的を持った活動であるはずの「デザインすること」さえも、自己目的的『遊び』として楽しむことも可能だいうことになります。

このとき、『遊び』を原動力として駆動するアート、クラフト、サイエンスを内包した「デザイン」という行為、その全体さえもが『遊び』になるという、『遊び』の入れ子構造が生まれ、俯瞰する「メタ視点」と、『遊び』に没頭し集中する視点が激しく行き来し、両立することになります。

それがうまく機能したとき、結果的に当初の目的を果たしつつ、それ以上に予想外の効果、新たな問いや目的を生み出すような、実りの多いデザインが生まれるのではないか、と思います。


タモリさんの言葉から始まり、『遊び』について考えながら、主体性デザインについて深掘りし、ここでまた『遊び』に戻って来たところで、このシリーズを終りにしたいと思います

ここに書いたのはもちろん「決定版」というものではなく、「いまのところこのように考えると少しすっきりする」という個人的な思考プロセスの共有です。

皆さんにとっても何かの参考になれば幸いです。

お付き合いいただきありがとうございました。

(五十嵐)

2022年3月28日月曜日

映画『千と千尋の神隠し』にみる「名前」と主体性の問題

ふだん山梨ハタオリ産地の活動を伝えるなかで考えた、名前主体性のことについて少しまとめてみようと思います。

映画『千と千尋の神隠し』を題材に、名前主体性というテーマについて織物産地と関連させてお伝えするような内容になります。

今回の内容は、前回の「遊びと仕事の境界線」の続編にあたります。


まず、山梨の郡内織物産地は一般の人にまだまだ知られていない、という状況について考えてみます。

知られていないのは、情報発信が足りていないからだ、という議論は当然あると思います。

現在の視点から見るとそうですが、しかしより正確に言うと、ここで考えたいテーマは、かつては一般の人に知られていたのに、どうして知られなくなったのか?という問いについてです。

江戸時代や、明治~戦前にかけては、山梨県の織物郡内島(郡内縞)甲斐絹という名前で広く知られていたことが知られています。

江戸時代や明治時代の文芸作品に生地の名が残されていることからも、かつては産地の名が広く浸透していたことが分かります。

しかし戦後、和服から洋服に服飾文化が変化し、また高度経済成長とともに生産・流通システムが変化する中で、産地が自らの名を冠した織物を作らなくなっていきました。

郡内産地は経済的には非常に豊かな成長期を迎えましたが、その代わりに自分の名前を世間に向かって伝える手段を失ったとも言えます。

誰もが知るような有名ブランドの生地をたくさん作っていても、それをみだりに言ってはならない、という商取引上の強い制約があったことも背景にあります。

現在でも洋装化したファッション産業において、ほとんどの製品に生地産地の情報は表示されていません

名前を名乗る機会を失ったまま、生産量が下降線をたどり続けたあと、新しい取引先や販路を開拓しようとしたとき、産地工場の人々は、自分たちの産地のことを誰も知らなくなってしまっていることに驚かされ、またそれがハンディキャップになってしまっていることに気づきました。


ここで紹介したいのが、映画『千と千尋の神隠し』 © 2001 二馬力・GNDDTM に見られる名前と契約に関するシーンです。

主人公の千尋が、両親を救うため湯婆婆に雇ってもらうシーンで、千尋はなんとかねばって雇用契約を結ぶことに成功します。

しかしこのとき、雇用主の湯婆婆は、契約時に千尋の名前をに変更してしまいました。

これは単に書類上の操作ではなく、恐ろしい魔法によって本当の名前を変えてしまい、仕事を与える代わりに、千尋から本当の名前を奪ってしまった、という状況です。

チャートにするとこのようになります。




上の図の下半分は戦後、郡内織物産地が名前を忘れられてしまった状況を重ねて書きました。

名前と仕事に関して、まったく同じような取引が行われていることが分かります。

ガチャマンや高度経済成長という好景気の裏で、それまで知られていた名前を失ってしまったという状況は、千尋が湯婆婆と交わした雇用契約に非常によく似ています。

これは郡内織物だけでなく、他の地域、他の産業にも、きっと同じことが起こっているのだろうと思います。


名前を奪われることのリスクについて、映画『千と千尋の神隠し』ではハクという少年をとおして名前を奪われると支配され、その結果、帰り道がわからなくなる>という風に描写されています。

本来の自分を取り戻すことができず、名前を奪った者に従属した状態から逃れられないでいるハクの姿からは、古くからの業界の慣習や関係性の中で苦しんでいる産地の姿を連想することもできます。


映画『千と千尋の神隠し』では主人公の千尋は、ハクの助言により本当の名前を忘れずに大事にとっておいたことで、両親を救うことができ、またその過程でハク本当の名前を取り戻すことに成功してハッピーエンドを迎えます。

この映画のメッセージを自分なりに解釈すると、「名前」アイデンティティ主体性を表しており、それを奪われていることさえ忘れかけている人々に対して、名前を取り戻せ主体的存在に立ち返れ、と言っているのではないかと思います。


映画『千と千尋の神隠し』では、2001年の公開から20年間、日本映画興行収入の第一位の座を守ってきました。

この映画がヒットした理由のひとつには、この時代に生きる私たちにとって、「名前」というテーマや、その意義が非常に大切だったということがあるのではないでしょうか。

そして非常に興味深いのが、2016年に公開されて興行収入第二位となった映画も、ズバリ「名前」に関する映画、『君の名は。』(C)2016「君の名は。」製作委員会 だったことです。





↑映画タイトルの下に赤字で書いたのは、描かれているテーマをざっくりとまとめたものです。

当時の日本映画歴代興行収入のトップ2が、どちらも忘れられかけた名前を取り戻そうとする話であることは、単なる偶然でしょうか?


そして2020年秋になると、このランキングは大ヒットした映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable によって書き換えられました。

また2021年には、映画化・アニメ化もされた漫画『進撃の巨人』©諫山創・講談社 が大人気のうちに完結して話題になりました。

これら二つの作品はどちらも、主人公が物語の序盤で、現実に目を向けて立ち向かう決断をする点に共通性があるように思えます。


『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』 では、人を甘い夢の中に閉じ込めようとする敵に遭遇し、主人公たちはいったんその夢に取り込まれながらそれを断ち切り、目を覚まして戦います。

『進撃の巨人』では、巨大な壁の中に閉じこもり100年間も平和を享受した街が、初めて壁を破って侵入する敵の襲撃を受け、主人公たちは壁外の現実に向き合おうと立ち上がります。

最初の2作品とこれらの作品を合わせて、どんなメッセージが作品に込められているかをまとめてみました。

ABという記号で結んだペアは、それぞれのペアでテーマに共通性があることを表します。

そしてABはこのように翻訳することができるのではないでしょうか?

この二つの問いかけは、まるで現代の社会、そして産地に対して投げかけられた問いであるようにも思えます。

夢や壁に象徴されるものとは何かその外にいる脅威は何を意味するのか?

そう考えるといろいろなことが物語に重ねられて見えてくるような気がします。


「古くからの大きなシステムに従属した存在であることに限界を感じるのなら、自分が誰なのか?と自ら問いかけ、どうやったら主体的な存在に立ち戻れるか、どうしたら名前を取り戻せるかを必死に考え、現実に立ち向かおう。」

これらの映画や漫画作品は、フィクションの物語という形をとおして、こんなことを私たちに伝えているのではないかと思います。


次回はこの延長線上で、デザインとは何か、というテーマについて考えたいと思います。


(五十嵐)


2022年3月4日金曜日

遊びと仕事の境界線

今回は《遊び》という言葉をキーワードにして山梨ハタオリ産地の活動をふりかえり、仕事と遊びの関係について考えてみたいと思います。


タモリさんの名言にこういう言葉があります。


これはタモリさんが友人と遊んで過ごしている場面で口にされた言葉だそうです。

ふつうなら「遊びじゃねぇんだぞ」というはずが、「仕事」に逆転しているのがとても面白いです。

この言葉を知ったときに疑問に思ったのは、タモリさんはこのとき、なぜ「遊び」は真剣にしなければならないと思ったのだろう、ということでした。

そこから考えはじめたのが、こういうことです。


遊びといっても、いろいろある。

サボって休んでいたり、ボーっと何もしないで過ごすのも遊びという。

けれど
「真剣にやるべき遊び」というものがあるを考えたとき、それはどのようなものだろうか?

真剣にやるべき遊びのことをカギかっこで「遊び」と書き、こんな風に考えてみました。


やらなくてもいいのに、やりたいからやる。

そういう遊びは、もし真剣にできないのなら、そもそもやらなければいい。

やるなら真剣にやるべきだし、そうでなければやる意味がない。


タモリさんの言葉が指している遊びとは、そういう種類の「遊び」だったのではないかと思います。

では、「遊び」の対義語はなんでしょうか?仕事?勉強?


【 遊び ー 仕事 】という単純な対比で、遊びの反対は仕事、と思いがちです。

しかしそれでは
「遊び」を説明できないように思えました。

そこで「遊び」の反対を、
非「遊び」と名付けたいと思います。


《 やらなくてもいいけど、やりたいから、自分がやると決めてやる 》のが「遊び」

その反対は、《 誰かに言われたから/義務だから/報酬があるからやる 》こと。

やる理由が、行為自体の外にあるものだともいえると思います。



「遊び」非「遊び」の違いをさらに考えてみます。

そうすると、主体的かどうか自己目的的かどうか、というキーワードが重要であるように思えてきました。






自己目的的というのは、その結果から得られるものが目的ではなく、それをすること自体が目的になっている、という意味です。


たとえばジョギングを例に挙げます。

減量するためだけにジョギングをして、もし体重が減らなかったら、そのジョギングは全て無駄ということになります。

このときジョギングは自己目的的ではありません。

しかしジョギングを楽しむことが目的の全てだとしたら、それは自己目的的「遊び」的な行為であり、体重が減らなくてもジョギングをしさえすれば、目的は果たせます。

そしてもしもその結果、ダイエットにつながったり、綺麗な風景に出会えたら、それらは全て目的達成以外のギフトになります。

同じジョギングという行為でも、どっちが楽しいかは自明です。

そして目的を何に設定するかというのは、主体的に決められることだと思うのです。



次に、普段の暮らしのなかで「遊び」にはどんなものがあるかを考えてみました。


いわゆる趣味といわれるものは「遊び」的なものでしょう。

やるかどうかは、やりたいかどうかで自分が決める、主体的な行動です。

しかし、場合によっては、義理、義務、何か外の目的のために、やりたくなくても、読書をしたり、絵を描いたりすることがあります。

「遊び」のはずが、非「遊び」的なものになっている。

こういうときは、気分が乗らず、良い結果が出ないことも多いことでしょう。

逆に、「遊び」のはずが、「遊び」になっているとしたらどうでしょうか。


仕事の多くは、非「遊び」的なものが多いと思います。

しかし、仕事の全てが、非「遊び」といえるでしょうか?

いま皆さんがやっている仕事や学校の勉強は、「遊び」非「遊び」のどちらなんでしょうか?



シケンジョで関わらせてもらった仕事の中から、2つの事例を紹介します。

一つ目は、フジヤマテキスタイルプロジェクト

山梨ハタオリ産地の機屋さんと、東京造形大学のテキスタイルデザイン専攻学生たちが、一緒にテキスタイルや商品を開発する取り組みです。


この事業は、誰かからやってほしいと言われたのではありません。

2008年に光織物有限会社の後継者(現社長)加々美琢也さんが、自分から「学生とコラボしてみたい」と意思を表明し、それに賛同した内外のメンバーと一緒に始めたプロジェクトです。

予算も補助金もないし、こうしなければならないという決まりもない。

利益に直結するとは限らないし、何が得られるかもよくわからない、手探りのなかで、しかし期待と熱量を持ってスタートしました。

1年が過ぎて成果展が終わると、メンバーたちは、「ぜひもう一年!」と声をそろえて監修の鈴木マサルさんに懇願し、そのまま現在(2021年度の13年目)まで継続しています。

このプロジェクトを通じて何人もの若者が産地に行き交うようになり、産地の空気はこの前後で大きく変わっていきました。


これは「遊び」非「遊び」のどちらでしょうか?


二つ目の事例は、ヤマナシハタオリトラベル

織物工場が、中間業者に頼らずに、自分たちでショップを作って、県内外でファクトリーブランドを販売するプロジェクトです。


これも、誰かに言われて始めたのではありません。

2012年に有限会社テンジンの社長小林新司さんが営業先のエキュート立川から、一か月あまりの期間、駅ビルのイベントスペースを借りられる機会を得たときに、「せっかくだからみんなでやってみようよ」声をかけてくれて、それに賛同したメンバーが集まって始まったプロジェクトです。

当初、これは非常に難しい取り組みなのではないか、という意見がありました。

複数の工場があつまって自力でショップを作るのも初めてだし、駅ビルのファッションフロアという場所も初めて。

むしろ下手に格好悪いディスプレイをしたら、イメージダウンになりかねない、というようなリスクがたくさんあるプロジェクトだとも感じられました

しかし最終的には、「どうせやるなら全力で取り組んでみよう」ということになりました。

その結果、この初の試みは話題を呼んで、
数々の有名百貨店から出店オファーが集まるようになり、1回で終わるかと思った出店はその後何年も続いて現在に至ります。

そして
メンバーは消費者との出会いの場づくりという、今までしたことのない経験を経て、学びながら成長する実感と、大きなやりがいを感じることができました。

これは「遊び」非「遊び」のどちらだったでしょうか?



おそらく仕事も学校の勉強も、「遊び」と 非「遊び」の両方からできています。

そして、「遊び」と 非「遊び」の割合は、工夫次第で変えられるのではないか。

非「遊び」的な内容でも、それにどう取り組むかで、その大部分を面白くてしょうがいない 「遊び」に変換できるのではないか。



フジヤマテキスタイルプロジェクト と ヤマナシハタオリトラベルは、産地の織物工場が成長するうえで大きな意味を持った活動だと思います。

その両方とも、補助金があるから、などの理由で誰かに言われたからではなく、自分からやってみたいと思い、主体的にやると決めたプロジェクトであったことは、大きな意味を持っていると思います。


誰かに言われて取り組む 非「遊び」的なものではなく、やりたいからやる「遊び」

もちろんその実現には、多大な工夫と労力を要します。

しかしこの二つの真剣な「遊び」が、産地にそれを超える大きなエネルギーをもたらしました。


それには「遊び」主体性と密接につながったものだということが、とても重要であるように思います。

大規模流通システムの小さなサブシステムである産地のなかで、なかなか主体性を発揮しづらかった織物工場。

この二つのプロジェクトは、彼らが主体的な挑戦、真剣な「遊び」よって、本来持っている力を取り戻し、新しい存在へと成長していった事例であるともいえると思います。



「遊びと仕事の境界線」というタイトルで今回はお送りしてきました。

その「境界線」は自分で引き直すことができるし、主体的に決めることが自分のエネルギーを引き出す鍵になるのではないか。

そんなことをお伝えしたくて、大学や高校での授業に招かれたときにお話ししていることをブログにまとめてみました。

考えてみると、このシケンジョテキの原稿を書くというのも、真剣な「遊び」の最たるものかも知れません。



(おまけの解説)

「遊び」という言葉でプロジェクトを振り返ってこのブログを書いた背景には、組織学者のカール・ワイクという人のこんな言葉がありました。


 組織が戦略を定式化するのは、

 それを実施した後であって、前ではない。

 人は何かをやってみてはじめて、それを振り返る

 ことができ、自分がやったことを戦略と結論するのである。

    カール・ワイク Karl E. Weick


フジヤマテキスタイルプロジェクトヤマナシハタオリトラベルのどちらについても言えるのは、あとになって「このプロジェクトの意義はこういうことだったんだ」と気付くことが多かったということです。

得られた結果が想定していた目標を超えていたり、想像していなかった所から成果が得られることが多くあったと感じられました


戦略というのは普通、ある目的が達成した状態から逆算して、計画的に組み立てられるもののように思えます。

しかしプロジェクトをやってみると、本当の目的は始める前にはわからなかった、ということが多い気がします。

カール・ワイクの言葉は、そんな状況を的確に描写していると思います。

しかしそうすると、「前もって明確で正確な目的のための戦略を立てることができないなら、どうやって作戦を考えれば良いのか?」という疑問も生まれてくると思います。

その答えになるのかもしれないのが、「遊び」主体的自己目的的というキーワードにあるように思えました。


一応の目的を設定し計画を立てるにしても、それが「遊び」的かどうかを評価基準にする。

それを行うこと自体が目的になるくらい「やりたい」、と思えるやり方、切り口を探る。

知恵を絞って工夫をこらし、自分が時間を忘れて夢中になれる「遊び」を真剣に仕掛けること。

そうしたときに、潜在的なエネルギーが引き出され、プロジェクトがドライブし、想定を超えた成果が得られる可能性が高まるのではないか。

そして振り返ってみた時に「自分がしたのはこういう戦略だったんだ」、と確認できる結果につながるのではないか、と思いました。



(五十嵐)