2024年4月25日木曜日

文学の中の甲斐絹 ⑥甲斐絹の風景

明治~昭和初期の文学に描かれた甲斐絹を紹介するシリーズ、第6回。

今回は甲斐絹の風景と題して、甲斐絹が織られている当時の風景や様子が書かれた作品を紹介します。



第一部 ノンフィクション編

其の壱 正岡子規による産地レポート

今回見つかった文献のなかには、小説や詩などの創作だけでなく、エッセイや日記のように事実を伝えるノンフィクション的なものがあります。

そのなかでも、正岡子規の『病床六尺』は最も詳しく産地の状況が書かれた作品の一つです。

この作品は、正岡子規が門人の新免一五坊からの伝聞を記したものとなっています。

新免一五坊は『病牀六尺』の前年の明治34年(1901年)から山梨県南都留郡明見村(現在の富士吉田市明見)、そしてその後谷村町(現在の都留市谷村)に滞在していたそうです。

ではその作品の該当箇所を見てみましょう。


正岡子規 『病牀六尺』(1902 明治35)
最晩年の子規が書いた随筆。門人の「一五坊」から伝え聞いた明治時代の富士吉田市(おそらく現在の明見周辺)の様子が語られている。


十七
 甲州の吉田から二、三里遠くへ這入つた処に何とかいふ小村がある。その小村の風俗習慣など一五坊に聞いたところが甚だ珍しい事が多い。一、二をいふて見ると、

 総てこの村では女が働いて男が遊んで居る。女の仕事は機織りであつて即ち甲斐絹を織り出すのである。その甲斐絹を織る事は存外利の多いものであつて一疋に二、三円の利を見る事がある(注①)尤も一疋織るには三日ほどかかる(注②)、しかしこの頃は不景気で利が少いといふ事である。一家の活計はそれで立てて行くのであるから従つて女の権利が強くかつ生計上の事については何もかも女が弁じる事になつて居る。男の役といふは山へ這入つて薪(たきぎ)を採つて来るといふ位の事ぢやさうな。

 甲斐絹の原料とすべき蚕はやはりその村で飼ふては居るがそれだけでは原料が不足なので、信州あたりから糸を買ひ入れて来るさうな。その出来上つた甲斐絹は吉田へ行つて月に三度の市に出して売るのである。

 甲斐絹のうちでも蝙蝠傘になる者は無論織り方が違ふ(注③)

 機を織るものは大方娘ばかりであつて既に結婚したほどの女は大概機を織るまでの拵(こしら)へにかかつて居る。それがために娘を持つて居る親は容易にその娘の結婚を許さない。なるべく長く(二十二、三までも)自分の内に置いて機を織らせる。その結果は不品行な女も少くないといふ事である。

(中略)

前いふたやうに機織の利が多いのにほかにこれといふ贅沢の仕様もないので、こんな辺鄙の村でありながら割合に貧しくないといふ事である。(後略)

行間が空いているところは、原文で改行のあった箇所です。読みやすいように行間を空けました。


『病床六尺』について

この作品では、伝聞とはいえ、産地の状況が非常に詳細に語られています。興味深い内容ですので、順序を整理し、箇条書きで内容をまとめてみました。

《男女の分担について》
●この村では女性が働いて男性が遊んでいる
●女性の仕事は機織りであり、甲斐絹を織ることである。
●男性の仕事は山に入って薪を採るくらい。
●家計を支える女性の権利は強く、経済的なことは女性が仕切っている。
機を織るのは独身女性で、既婚女性は準備工程を担っている。
●貴重な織り手である独身女性の結婚は容易に許されず、(22、23才までなど)長く親元で機を織り続ける。

《甲斐絹の商売について》
●甲斐絹は一疋に二、三円の利益が出ることもあり儲かるが、この頃は不景気で利益が減った。(注:一疋は反物の長さの単位で約23m)…注①
●織った甲斐絹は吉田(現 富士吉田市内)で月に三回の市に出して売る。
●甲斐絹は儲かるが、これというお金の使い道がないため、辺境の村にしては割合に貧しくない。

《甲斐絹の生産について》
一疋織るには三日ほどかかる。…注②
●甲斐絹の原料の蚕は近隣では足らず信州あたりからも買い入れる。
●甲斐絹のうち蝙蝠傘にするものがあり、それは織り方が違う…注③

注① 一疋に二、三円の利益
「二、三円」というのが当時どのくらいの価値だったのかを推測するのは難しいですが、当時の初任給で考えると1円が2万円程度と考えられるので、それを基準とすれば、3日で一疋生産できるとすると、月に20~30万円程度の利益が出るという計算になります。

※参考「明治30年頃、小学校の教員やお巡りさんの初任給は月に8~9円ぐらい。」
mana@bow Column 6 明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい? https://manabow.com/zatsugaku/column06/

注② 一疋織るには三日
同じ甲斐絹産地の谷村地域に伝わる『都留のはたおり唄』には、女工が三日に一疋織れますように」と機神様に祈る歌詞があります。『病床六尺』の記述はこの歌詞の内容を裏付けていることが新たに分りました

『都留のはたおり唄』はYouTube『ハタオリマチフェスティバル 2018』のBGMとして聴くことができます。

注③ 蝙蝠傘は織り方が違う
郡内産地での当時の傘の織り方については、『創立七十周年記念誌 山梨県繊維工業試験場』(1975)に次のような記述があり、この二つの織り方のどちらかのことを指しているかと思われます。

【ゴム綾】「斜めに引っ張れば弾力性に富むためゴム綾と呼ばれた。明治33年頃まで織られた。しかし傘地としてはやや粗く、緯糸の打込みを増すことで密にしたが重くなる欠点があった。」

【メートル綾】「明治34年頃研究試織された「メートル綾」と呼ばれ、主に男物として販売された。当初1m単位で取引されたためその名となっている。」

(以上『創立七十周年記念誌 山梨県繊維工業試験場』(1975) p.54)

上の組織図は『創立七十周年記念誌 山梨県繊維工業試験場』をもとに作成したものです。

新免一五坊が産地内に滞在していたのは明治34年(1901年)から。【メートル綾】その同じ年に新しく開発されたばかりです。おそらく地元ではそのことが話題になっていて、そのため一五坊をつうじて正岡子規の耳にも入ったのかもしれません。


其の弐 中村星湖が描くふるさとの風景

中村星湖は南都留郡河口村(現在の富士河口湖町)に1884年(明治17年)に生まれた文学者で、今回のシリーズでは数少ない地元出身の作家になります。

とてもタイムリーなことに、山梨県立文学館にて今週末から『中村星湖展』が開催されます。(会期:2024年4月27日(土)~6月23日(日) /生誕140年歿後50年

中村星湖の生家は、江戸時代からの御師(おし)の町であった河口村の御師の家系で、農業を営みながら養蚕生糸商を行っていたそうです。

御師:富士山信仰の巡礼者に宿坊を提供するなどの世話役であり、また富士山信仰の普及・指導をする役目を持つ人々。

ここで紹介する『少年行』は、故郷の河口村など山梨県を舞台に描かれた小説ですが、生糸を作る工程、機織りの風景や甲斐絹については、事実を伝えるノンフィクション的な描写となっています。


中村星湖 『少年行』(1907 明治40)


斯様(こん)な風に、野は枯れ村もます/\寂れて行く年の暮れから、ずつと雪の下が却つて自分の家の忙しい時節である。生糸を引く家は外にも四五軒あつた。其頃はまだ水車で糸を撚らせる事など考へ附かなんだので、撚車の重いのを母がガン/\廻したものだ。そして撚のかゝつた糸は揚枠(あげわく)へあがるやうな具合になつて居て、揚枠を外して父が多きな綜枠(へわく)(注①)と云うので、四十よみ(傍点)(注②)とか五十よみ(傍点)とか糸の数を定め、長(たけ)を定めて、経糸を綜上(へあ)げるのであつた。

綜上げた経糸は ― 機にする糸に経、緯の区別がある ― 一の日と五の日に吉田と云ふ二里許(ばかり)隔てた町の市場へ背負ひ出して、仲買人の手へ渡したり、つぼ(傍点)(素人)へ売つたりした。

此糸の捌けて行く所は同じ裾野の内でも、下郷と総称して吉田から下つて東の方、谷村や猿橋辺の機織場である。所の者にはさして珍しくは無いが、旅をする何人(たれ)でも偶と通りすがつた藁家の軒に、サヤサヤ/\と静かな調子で、 ― 此辺の機は引梭(ひきをさ)と云ふので、チヤンカラ/\と打つけはせぬ ― 織り進む梭の声を聞いたなら、場所柄だけに、沙漠に妙音を聞く感じがするであらう。よく絵や歌に入れる桃咲く軒端のそれもよいが、雪の静かに降る日なぞには殊に懐かしい惹きつけられるやうな幽韻(ひびき)がする。

一口に甲斐絹と云って了ふものの、絵甲斐絹もある。縞甲斐絹もある。白無地もあり黒無地もあり、綾物もあれば綾でないのも、五裏だとか何だとか、それ等は皆、裾野の乙女達の手になるのです。そして骨細で百姓の出来ない者で、小金の廻る者は ― やはり甲斐絹にも生糸と同じで市がたつた ― 市場へ出て仕入れたり、つぼから頼まれたりして、方々の国へ、所謂甲斐絹商人となつて廻つて行く。


『少年行』について

この引用した箇所では、前半に糸づくり、後半に機織りのことが書かれています。

書かれたの1902年(明治35年)で、正岡子規の『病床六尺』(1907年 明治40年)の5年前になります。

糸づくり機織りについて、それぞれ書かれている内容をまとめてみました。

《糸づくりについて》
●糸を撚るのは人力の撚車であり、水車の利用はこの後の時代に始まる
●糸は「経枠で経糸を綜上げる」とあり、経糸に使われる糸を作っていた。注①
四十よみとか五十よみなど糸の数を定め、長さを定めて、経糸を準備する。注②
●糸を作る時点で経糸と緯糸の区別があり、生糸商は経糸用、緯糸用の糸として市に出していた
●描かれている糸づくりの舞台は、吉田から二里ほど離れた河口村と思われる。
●作られた糸は一の日五の日に吉田の市で売られ、仲買人や「つぼ」と呼ばれる素人(一般消費者か)の手に渡る。

《機織りについて》
●作られた糸で機織りをするのは、谷村(現 都留市)、猿橋(現 大月市猿橋)にある機場。

●「引梭(ひきをさ)」(=引き杼)は使わず、おそらく投げ杼で、「サヤサヤと」静かな調子で織っていた
●織られるのは甲斐絹であり、その中には絵甲斐絹、縞甲斐絹、無地甲斐絹(白、黒)、綾物、五裏(いつうら)などがある。
●それらの甲斐絹は、裾野の乙女達が織っている

《市について》
●一の日と五の日に、吉田で経糸を売り買いする市が立つ。
●生糸と甲斐絹、それぞれの市がある
●「骨細で百姓の出来ない者」、「小金の廻る者」(=資金力のある者か)が「甲斐絹商人」となって、市場で甲斐絹を仕入れたり、素人(つぼ)から頼まれたりして、ほうぼうの国へ廻っていく。

注① 経枠(へわく)

経枠というのは、2010年代まで富士吉田市内でも見られた「濡れ巻き整経」の工程で使われる道具です。下の写真で回転しているのが経枠です。



注② 「よみ」、「綜上げる」

よみというのは、経枠で経糸を巻くときの糸の本数の単位です。「算」と書いてよみと読みます。ひとよみ=経糸80本=40ワナで、ひとワナ=経糸2本となります。

ひとワナは、下の図のように糸1本の一往復分(ひとワナ)が経糸2本となる単位です。

上の写真のように経枠の円周をぐるぐると螺旋状に巻かれて、端まで行ったら綾を作り(1本ずつひねってX字に交差させて棒に通し、糸の順番を保持する)、折り返して螺旋の上を戻りながら巻かれていきます。その一往復で、1ワナが出来上がります。

「綜上(へあ)げる」という言葉は現在では耳にしないので、調べても正確なところは分かりませんが、おそらく文脈上、経玉(へだま)と呼ばれる経糸の状態(下の写真)を作ることを指しているのかと思われます。

上の写真の経玉は、『少年行』文中にもある「四十よみとか五十よみ」(=3200~4000本)と同程度の本数の経糸がまとめられたものです。

この状態で経糸は市に出されて取引されたそうで、そのあと染色、整経工程を経て機織りに使われることになります。

濡れ巻き整経では、経玉ひとつを1カケラといい、通常2カケラ~5カケラでおまき1本が作られます。ちなみに数え方は「ヒトカケラ/フタカケラ/ミッカケラ/ヨッカケラ/イツカケラ」です。

濡れ巻きについての詳細は、シケンジョテキバックナンバーをご覧ください。

濡れ巻きサテンの輝き 2012年10月9日火曜日

濡れ巻き技術保持者、経枠職人の渡辺勝彦さん 2012年3月12日月曜日

濡れ巻き技術保持者、武藤うめ子さんの組み込み作業 2012年3月13日火曜日

濡れ巻き技術保持者、武藤うめ子さんの機巻き 2012年3月14日水曜日

濡れ巻きツアー 経枠職人編① 2011年12月9日金曜日

濡れ巻きツアー 機巻き職人編② 2011年12月12日月曜日

濡れ巻きツアー 機屋編③ 2011年12月13日火曜日


中村星湖は民俗学にも関心を持ち、民俗学者の柳田国男とも交流があったそうです。『少年行』のストーリーとはあまり関連のない詳細な描写には、故郷を客観的に民俗学的な視線でとらえ、その姿を伝えようとする面があったかもしれません

また事実を客観的に描写するだけでなく、旅人が通り過ぎる家から機織りの音がもれ聞こえるのを聞く、という文章では「雪の静かに降る日なぞには殊に懐かしい惹きつけられるやうな幽韻(ひびき)がする。」とあり、美しいことばで甲斐絹の織られる風景を描写しているのが印象的です。

また甲斐絹とは関係ありませんが、『少年行』冒頭には次のような湖についての描写があります。

「裾野を取り巻いて(中略)、山中、明見、河口、西、精進、本栖の湖水が散在して」

ここでは明らかに現在の富士五湖(山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖)のことを書いていますが、自然に「明見湖」が加えられ、「富士六湖」として並べられていることにお気付きでしょうか。

実は私たちが当たり前に使っている「富士五湖」という言葉や概念は、明治40年当時にはまだ無かったようです。

「富士五湖」という表現が広まる契機となったのは昭和2年、「新日本八景」(東京日日新聞・大阪毎日新聞共催)の選定において、富士山麓電気鉄道(現在の富士急行)の創始者として知られる堀内良平氏が「富士五湖」という呼称を提案したときだったようです。そして新日本八景では「富士五湖」見事に湖沼の部日本一に輝いた、という逸話が残っています。


其の参 柳宗悦、甲斐絹を語る

柳宗悦は、美術評論家、思想家であり『民藝運動』の主唱者として知られます。ここで紹介する作品『手仕事の日本』は日本各地の民芸品を紹介するガイドブック的な内容なので、「文学の中の甲斐絹」というシリーズでは少し変わり種です

民藝の父と呼ばれる柳宗悦の手で、短いながら甲斐絹を評している文章があるというのは特筆すべきことではないでしょうか。

柳宗悦 『手仕事の日本』(1948 昭和23)


勝山城のあった谷村町は「甲斐絹」の産地として名があります。この絹織物は薄手で密で、艶があり滑かさがあり、特に裏地には適したものであります。風呂敷にも好まれました。


とても短い描写ですが、薄手で密で、艶があり滑かさがあり、特に裏地には適したものという表現は、簡潔に本質が濃縮されていてさすがです。


其の  少年の旅情をさそった甲斐の詩

有本芳水は「少年詩」の開拓者と言われます。彼の書いた少年向けの抒情的・感傷的な旅の詩は、雑誌『日本少年』で連載され、絶大な人気を博していたそうです。

その連載をまとめた『芳水詩集』に収められた作品『甲斐より』では、甲斐の国の様々な風景を描いた詩の一節に、甲斐絹の風景が登場します。

有本芳水 『芳水詩集 甲斐より』(1914 大正3)

梨の花散る六月の
甲斐はよき國歌の國
透いても見ゆる白壁に
日は酒のごと濁り来て。
・ ・ ・
甲斐絹織るなる少女子(おとめご)の
涼しき歌と筬の音は
灯ちらつく家家の
ちさき窓より洩るるかな


富士山の麓では日が暮れたあと、若い娘たちがそれぞれの家で、歌を歌いながら手機で甲斐絹を織っているという風景がかつて存在し、またそれが日本中の少年少女の心に美しい言葉でこうして届けられていたのだ、ということが伝わってくる作品です。


第二部 《甲斐絹の名産地》編

ここからは、郡内(山梨県東部エリア)が甲斐絹の名産地として作品中に登場する事例を続けて紹介します。


小島烏水(うすい) 『不尽の高根』(発行年不詳 )


四 富士浅間神社

吉田だけは、江戸時代から、郡内の甲斐絹の本場を控えて、旅人の交通が繁かっただけあって、山の坊のさびしさが漂うと共に、宿場の賑わいをも兼ねて見られる。

十 八ヶ岳高原

甲斐絹、葡萄、水晶の名産地として、古くから知られた土地ではあるが、甲斐を顕揚するものは、甲斐の自然その物であらねばならぬ。


この作品は小説ではなく、登山家としても知られる作者による山を巡る紀行文です。富士山を巡る旅行記の中で、吉田(現在の富士吉田)を甲斐絹の本場と評し、また甲斐の国全体の名産として甲斐絹、葡萄、水晶が挙げられています。


種田山頭火 『旅日記』(1936 昭和11)


甲府まで汽車、笹子峠は長かつた、大菩薩峠の名に心をひかれた。
甲斐絹水晶の産地、葡萄郷、安宿は雑然騒然、私のやうな旅人は何となくものかなしくなる、酒を呷つて甲府銀座をさまよふ。


甲斐絹については、小島烏水の作品と同様、水晶、葡萄と並んで登場します。

それよりも興味深いのは、「甲府銀座をさまよふ」です。甲府銀座通りは現在もある繁華街のアーケード通りで、その名で呼ばれるのは、昭和5年頃からとされるようです。種田山頭火がさまよっていた、まだ出来てから数年しかたっていない甲府銀座通りがどんな風景だったのか、気になります。

中里介山 『大菩薩峠 駒井能登守の巻』(1918 大正7)


「なんしてもこの通りの山の中でございますから、景色と申しても名物と申しても知れたものでございますが、そのうちでも甲斐絹と猿橋、これがまあ、かなり日本中へ知れ渡ったものでござりまする」
「そうだ、猿橋と甲斐絹の名は知らぬ者はあるまい、その猿橋ももう近くなったはず」


登場人物のセリフのなかで、甲斐絹猿橋の組み合わせが順序を逆にして2度繰り返されるのが面白いです。猿橋は、「日本三奇橋」と謳われる、断崖絶壁にかけられた橋脚のない小さな木造の橋です。周囲の地名もやはり猿橋で、中村星湖の『少年行』では甲斐絹を織る場所としても登場します。

中里介山 『大菩薩峠 安房の国の巻』(1921 大正10)


けれども、その甲州話も、政治向のことや勤番諸士の噂などは、おくびにも出ないで、甲州では魚を食べられないとか、富士の山がよく見えるとか、甲斐絹(かいき)が安く買えるとか、そんな他愛のないことばかりでしたからお角は、この殿様がどうしてかの立派な御身分から今のように、おなりあそばしたかということを尋ねてみる隙がありませんでした。


甲斐絹が安く買える」という登場人物のセリフから、甲斐絹は多くの人が欲しいと普通に思っているようなものであり、かつ、できれば安く手に入れたいと思うくらいのプライス感だったことが伺えます

中里介山 『大菩薩峠 鈴鹿山の巻』(1914 大正4)


「ちっとばかり内職をやっているものでございますから」
「内職を? 何か反物でも商いをなさるの」
「へえ、まあそんな事で」
「そう、そんなら今度ついでの時に、甲斐絹(かいき)の上等を少し見せてもらえまいかね」
「よろしゅうございます、持って参りましょう。時にお師匠様」


内職をやっている、というのセリフの主は、中村星湖の『少年行』で方々の国へ、所謂甲斐絹商人となつて廻つて行く。」と書かれていたような人々の一人であるようです。

国枝史郎 『蔦葛木曽棧』(1922 大正11)


「妾わたしなどよりあなたこそ、こんな辺鄙な山里へ、何んでおいでなされました」
 不思議そうにお銀は訊いた。
「はい、そのことでございますか、実は故郷(くに)の名産の甲斐絹(かいき)を持って諸方を廻わり、付近(ちかく)の小千谷(おぢや)まで参りましたついで、温泉(いでゆ)があると聞きまして、やって参ったのでございますよ」


こちらも上の作品同様、「甲斐絹商人」と呼ばれる人のようです。こうしていくつかの作品に言及されているのをみると、かなりの人数がいたのかもしれません。

津島美知子 『回想の太宰治』(1978 昭和53)


内織というのは家族や知人の個人用として特別に機にかけて織ったもののことで、昔からいわゆる甲斐絹の産地で機業の盛んな郡内(富士山の北側の桂川沿岸地方)では、つてがあれば織ってもらえることを私は見聞きしていた。十字絣か、二色の縞くらいの簡単なものしか出来ないけれども、素朴なよさがあり、もちがよいという定評もあった。。


最後に紹介したこの『回想の太宰治』だけは、甲斐絹の時代のリアルタイムではなく、昭和53年の発行です。太宰治の妻美知子が、太宰治には言わずに「内織(うちおり)」と呼ばれる着物を注文しようというくだりの文章です。太宰治は『富嶽百景』ではしばしば吉田(現在の富士吉田)へ出かけていたことが書かれていて、吉田の街を
おそろしく細長い町であつた。」と評しています。おそらく本町通りのことかと思われます。
また、郡内産地では商売用の甲斐絹だけでなく、個人用の着物を作るためにも機を織っていたこと、ときにはこのように知人のつてで注文もできたことが分ります。

以上、甲斐絹の風景というテーマで集めた作品の紹介でした。
興味を持たれた方はよろしければぜひ原典を当たってみてください。

このシリーズはいったんここで一区切りになります。
文学の中の甲斐絹をめぐる旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。

また機会があればこのシリーズの続きをお送りしたいと思います。

[参考文献]
*青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/
*『少年行 ー中村星湖展―』 発行/山梨県立文学館(1994)


[甲斐絹 関連ページ]

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2024年 1月24日 文学の中の甲斐絹 ④甲斐絹の用途
2023年 10月4日 文学の中の甲斐絹 ③甲斐絹の色彩
2023年 10月4日 文学の中の甲斐絹 ②甲斐絹のオノマトペ辞典
2023年 10月3日 文学の中の甲斐絹 ①文人たちが書いた甲斐絹
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(五十嵐)