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2024年1月24日水曜日

文学の中の甲斐絹 ④甲斐絹の用途

明治~昭和初期の文学に描かれた甲斐絹を紹介するシリーズ、第4回。

今回は、『甲斐絹の用途』と題して、文学作品の中で甲斐絹どんな使いみちで書かれていたかを紹介します

これまでのシリーズで紹介した甲斐絹が登場する戦前の作品のうち、何かしらの使われ方で甲斐絹が描写されている作品事例での用途を、イラスト付きの一覧でまとめてみました。


これまで「甲斐絹は主に羽織の裏地として使われた」という言葉が、ほとんど唯一の甲斐絹の用途の説明として言い伝えられ、繰り返し語られてきました。

しかし、今回の調査結果を見ると、それ以外のバリエーションが二十数種類あったことがわかり、予想外の甲斐絹の用途の多彩さに驚かされる結果となりました。

ここで注意すべき点は、文学作品から分かるのは、実際に甲斐絹がそう使われていたかどうか、という事実関係ではなく、一般に甲斐絹は何に使われるものなのかという当時の人々の意識、いわば人々の心の中の《甲斐絹像》なのだろう、という点です。

それをふまえつつ、次に具体的な登場回数を加え、甲斐絹の用途の頻度を図解してみます。


この結果を見ると、たしかに羽織の裏地が8件で最多で、「甲斐絹は主に羽織の裏地」と言えなくはないものの過半数には程遠い少なさであり、残りの大多数、82%は他の用途として登場していたことは驚きの結果でした。

なお「小袖?」と書いた4つの事例は、前後の文から和装の上着として代表的な小袖であろう、と推測できるものの、甲斐絹がその表地か裏地かどうかをふくめて定かではないものです。

もしこれらが裏地だった場合、羽織ではないにしろ和装の裏地としての事例は、実際にはもう少し多かったかもしれません。

ちなみに、これらが書かれた年代は1888年~1942年(明治21年~昭和17年)54年間でした。

この54年間に登場する甲斐絹の用途を時系列に並べてみると、このようになります。



この分布を見ると、羽織の裏地として登場するのは明治末期に集中し、大正3年が最後となっています。

甲斐絹が羽織の裏地として登場する作品では、すべて同時代(明治~大正)の服装の描写として甲斐絹が現れていました。

調べてみると大正時代から一般男性への洋服の普及が急速に進んだとされているので、大正3年以降に羽織の描写がないことは、もしかしたら洋装化の流れで羽織の裏としての甲斐絹の需要が減り始めた兆しなのしれません。

一方、脚絆・手甲は長期間にわたって登場していました。

脚絆・手甲が登場する作品は、羽織の例と違ってすべて江戸時代が舞台の作品であり、また一つの例外をのぞいてみな女性の旅装束として書かれていました。

脚絆・手甲における甲斐絹は、実際に使われたかどうかはともかく、江戸時代を舞台にした時代劇のなかで女性が旅するときの小道具として、一般にイメージが広く定着していたということを表していると考えられます。

次に上記の図解の元データとなった文学作品の該当部分を、甲斐絹の用途別に一挙にご紹介します。

※ 青字 が作品の抜粋、その後の※赤字」は解説です。

※ ・ ・ ・の印のあとは、同じ人物の服装について別の箇所でも甲斐絹が登場する場面があった事例です。


[羽織の裏] 夏目漱石 『虞美人草』(1907 明治40)
床の抜殻は、こんもり高く、這い出した穴を障子に向けている。影になった方が、薄暗く夜着の模様を暈(ぼか)す上に、投げ懸けた羽織の裏が、乏しき光線(ひかり)をきらきらと聚(あつ)める。裏は鼠(ねずみ)の甲斐絹(かいき)である。
※主人公「小野さん」の恩師、井上孤堂先生が、病床から小野さんを出迎えて羽織を着ようとするときの描写。「甲斐絹と文学散歩」(金子みすゞの詩を読む会/2013)によると、「英吉利織」のスーツでおしゃれをした新進の文学士「小野さん」と、鼠甲斐絹の羽織を着ようとする病気の「井上先生」には、新時代と旧時代の対比が表わされているという。この場面の直前にも「井上先生」は「降りつつ夜に行くもの」「運命の車で降りるもの」と、下降線をたどっているように評されており、この場面は、甲斐絹はきらきらと光るけれども、そこに差している光はもはや乏しい、というニュアンスの演出意図を読み取ることができる。

[羽織の裏] 谷崎潤一郎 『少年』(1911 明治44)
やがて信一は私の胸の上へ跨がって、先ず鼻の頭から喰い始めた。私の耳には甲斐絹の羽織の裏のさや/\とこすれて鳴るのが聞え、私の鼻は着物から放つ樟脳の香を嗅ぎ、私の頬は羽二重の裂地(きれじ)にふうわりと撫でられ、胸と腹とは信一の生暖かい体の重味を感じている。
※主人公「萩原の栄ちゃん」が10歳くらいの頃、裕福な家の友人、塙信一らとともに「狼と旅人」ごっこをしているとき、信一が狼の役をして「私」に襲いかかろうとしているときに着ていた羽織の描写。

[羽織の裏] 樋口一葉 『一葉日記』(1896 明治29)
正太夫年齢は廿九、痩せ姿の面やうすご味を帯びて、唯口許にいひ難き愛敬あり、綿銘仙の縞がらこまかき袷に木綿がすりの羽織は着たれどうらは定めし甲斐絹(かいき)なるべくや、声びくなれど透き通れるやうの細くすずしきにて、事理明白にものがたる。かつて浪六がいひつるごとく、かれは毒筆のみならず、誠に毒心を包蔵せるのなりといひしは実に当れる詞なるべし /長谷川時雨『樋口一葉』(1918 大正7)より
・ ・ ・
(上の現代語訳抜粋)木綿の銘仙の細かい縞柄の袷に、木綿絣の羽織は着ているが、裏はきっと甲斐絹であろう。
/ 高橋和彦『樋口一葉日記 完全現代語訳』(1993 平成5, 発行:アドレエー)より
※一葉が明治29年5月29日の日記のなかで、正直正太夫(別号斎藤緑雨)のことを少々うさんくさい人物として評している文章のなかの描写。

[羽織の裏] 石川啄木 『天鵞絨』(1908 明治41)
突然四年振で來たといふ噂に驚いた人達は、更に其源助さんの服裝の立派なのに二度驚かされて了つた。萬(よろづ)の知識の單純な人達には何色とも呼びかねる、茶がかつた灰色の中折帽は、此村では村長樣とお醫者樣と、白井の若旦那の外冠る人がない。繪甲斐絹の裏をつけた羽織も、袷も、縞ではあるが絹布物(やはらかもの)で、角帶も立派、時計も立派、中にもお定の目を聳たしめたのは、づしりと重い總革の旅行鞄であつた。
※理髪師の「源助さん」が、四年ぶりに村に戻った際に、以前よりも服装が立派になっていた、という場面の描写。

[羽織の裏] 伊藤左千夫 『春の潮』(1908 明治41)
おとよは女中には目もくれず、甲斐絹裏の、しゃらしゃらする羽織をとって省作に着せる。
※主人公、省作が恋人のおとよから着せられている羽織の描写。

[羽織の裏] 泉鏡花 『露肆(ほしみせ)』(1911 明治44)
寒くなると、山の手大通りの露店よみせに古着屋の数が殖ふえる。(中略)絹二子(きぬふたこ)の赤大名、鼠の子持縞という男物の袷羽織。ここらは甲斐絹裏を正札附、ずらりと並べて、正面左右の棚には袖裏の細っそり赤く見えるのから、浅葱の附紐(つけひも)の着いたのまで、ぎっしりと積上げて、
※山の手大通りに並ぶ露店(よみせ)に並んだ商品である羽織の描写。

[羽織の裏] 有本芳水 『芳水詩集 断章十七  秋の朝』(1914 大正3)
秋の朝のさみしさ
ぬぎ捨てられた羽織の甲斐絹裏の赤い色が
ちくちくと眼にしむさみしさ

※秋の朝のさみしさを表現した詩のなかでの羽織の描写。

[羽織の裏] 三代目 三遊亭金馬 『噺家の着物』(作成年不詳 )
男の縮緬や、かべなどは、にやけるし、紋羽二重とくると坊さんじみるし、黒繻子がよい、とくると出羽の秋田で織りますのを最上等と致してあります。裏は甲斐絹がよいが、どういうものか甲斐絹は近頃はやらない。
※落語の円喬師が『垂乳女(たらちめ)』の枕で紹介した、国内諸国何か所もの生地を一堂に集めて装う衣装についての描写。

※次の二つも羽織の裏として甲斐絹が登場する作品ですが、戦後に書かれたものであるため、この投稿での甲斐絹の登場回数のカウントからは除外しています。

[羽織の裏] 司馬遼太郎 『竜馬がゆく』(1962-1966 昭和37-41 文春文庫より)
清河は、高橋宅を出た。
韮山笠(にらやまがさ)をかぶり、羽織は黒で甲斐絹の裏づけ、袴はねずみ竪(たて)じまの仙台平、大小もみごとなこしらえで、どうみても千石以上の大旗本といった身なりである。

※幕末の志士、清河八郎が幕府の刺客によって討たれた日の服装の描写。

[羽織の裏] 増田れい子 『紅絹裏(もみうら)』(1984 昭和59 『白い時間』講談社より)
羽織の裏、というのも面白かった。
背中と胴のほんの少しの部分にしかついていないが、さわるとキュキュと鳴る甲斐絹がついていた。銘仙か何かの羽織だったろう。表地の方はすっかり忘れてしまったが、甲斐絹の色合いだけは覚えている。オレンジと朱と、わずかなグレイが組み合わさった格子柄であった。いいものだな、と思った。

※作者の母が着ていた着物をたたむ手伝いをしていた頃を思い返して表現した羽織裏の描写。

 

[合羽の裏] 三木竹二 『いがみの権太』(1896 明治29)
紺の白木の三尺を締め、尻端折(しりはしょり)し、上に盲目縞の海鼠襟(なまこえり)の合羽に、胴のみ鼠甲斐絹(ねずみかいき)の裏つけたるをはおる。
※『義経千本桜』の登場人物、いがみの権太が纏っていた合羽の描写。

[半纏の裏] 林不忘 『丹下左膳 乾雲坤竜の巻』(1927 昭和2)
と! 踏み出した栄三郎のうしろから、こと面倒とみてか、男が美(い)いだけの腰抜け侍とてんから呑んでいるつづみの与吉、するりとぬいだ甲斐絹うらの半纒を投網のようにかぶらせて、物をもいわずに組みついたのだった。
※遊び人「つづみの与吉」が、幕府の剣士、諏訪栄三郎から大金を奪い取ろうと頭からかぶらせた半纏の描写。このあとこの半纏について「江戸の遊び人のつねとして、喧嘩の際にすばやくすべり落ちるように絹裏(きぬうら)を張りこんでいる半纒」との描写があり、甲斐絹の滑りの良さが取り上げられている。

[袴の裏] 林不忘 『丹下左膳 日光の巻』(1934 昭和9)
町のはずれまで宿役人、おもだった世話役などが、土下座をしてお行列を迎えに出ている。いくら庄屋でも、百姓町人は絹の袴は絶対にはけなかったもので、唐桟柄(とうざんがら)のまちの低い、裏にすべりのいいように黒の甲斐絹(かいき)か何かついている、一同あれをはいています
※伊賀藩主、柳生対馬守とお茶師、一風宗匠がたどりついた程ヶ谷の宿場町で、出迎える庄屋の衣装の描写。

[蹴出の裏] 泉鏡花 『当世女装一斑』(1942 昭和17)
腰より下に、蹴出を纏ひて、これを長襦袢の如く見せ懸けの略服なりとす、表は友染染、緋縮緬などを用ゐ裏には紅絹(もみ)甲斐絹(かひき)等を合はす、すなわち一枚にて幾種の半襦袢と継合すことを得え、なほ且長襦袢の如く白き脛(はぎ)にて蹴出すを得るなり、
※女性の下着から帯までの衣装を列挙して解説する文章のうち、着物の下に着る蹴出(けだし)(=裾除け)についての描写。

[前掛の裏] 近松秋江 『別れたる妻に送る手紙』(1910 明治43)
其れには平常(いつも)の通り、用箪笥だの、針箱などが重ねてあって、その上には、何時からか長いこと、桃色甲斐絹(かいき)の裏の付いた糸織の、古うい前掛に包んだ火熨斗(ひのし)が吊してある。
※主人公の別れた妻が家に残した前掛けの裏についていた甲斐絹の描写。ここで前掛けというのは職人の仕事着である藍染の帆前掛けではなく、女性用の前垂れ(和服用エプロンのようなもの)のイメージかと思われる。

 

[小袖?] 北原白秋 『桐の花』(1913 大正2)
鳴りひびく 心甲斐絹を着るごとし さなりさやさや かかる夕に
※小袖と思われるが不詳。甲斐絹の風合いが、心を沸き立たせるような、さわやかな心地よさを持つものとして歌のイメージの中核に位置づけられており、当産地の歴史上、特筆すべき重要な作品と思われる。

[小袖?] 吉川英治 『鳴門秘帖 江戸の巻』(1926 昭和1)
万吉もその様子を見てホッとしたが、ヒョイと見ると鼠甲斐絹(ねずみかいき)の袖に、点々たる返り血の痕――。ああ、斬ったな、何かあったな、とは思ったが、折からの来客、それを問うまもなく、また弦之丞も話をそれに触れず、常木鴻山と初対面の挨拶をかわした。
・ ・ ・
門柱の蔭にすがって、弦之丞は、駕から奥へ連れられてゆく、痛ましい人の姿を見送っていたが、やがて、両眼へ掌を当てたまま、鼠甲斐絹(ねずみかいき)のかげ寒く、代々木の原を走っていた。

※舞台は江戸時代中期。主人公で幕府の隠密、法月弦之丞(のりづき げんのじょう)の服装の描写。小袖と思われるが、裏か表かは不詳。

[小袖?] 吉川英治 『剣難女難』(1925 大正14)
重蔵も千浪も同じような鼠甲斐絹(ねずみかいき)に丸ぐけ帯、天蓋尺八という姿になった。
※主人公、春日新九郎の恋人である千浪と、新九郎の兄に重藏が、虚無僧の扮装をしたときの描写。小袖と思われるが、裏か表かは不詳。

[小袖?] 野村胡堂 『銭形平次捕物控 辻斬』(1941 昭和16)
「衣摺(きぬずれ)の音がします。近く寄るとサヤサヤと――」
「贅沢な辻斬だな」
 さやさやと衣摺れの音が聞えるのは、羽二重か甲斐絹か精好(せいごう)か綸子でなければなりません。

※覗き見た辻斬りの風体を尋ねられたやくざ者の音松が、暗闇だったので相手が見えなかったが、衣擦れの音がした、と言う時の描写。

 

[どてら] 有島武郎 『或る女』(1911 明治44)
事務長は眉も動かさずに、机によりかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録のほかに三人いた。その中の一人は甲斐絹(かいき)のどてらを着ていた
・ ・ ・
そう吐き捨てるようにいいながら倉地の語る所によると、倉地は葉子に、きっとそのうち掲載される「報正新報」の記事を見せまいために引っ越して来た当座わざと新聞はどれも購読しなかったが、倉地だけの耳へはある男(それは絵島丸の中で葉子の身を上を相談した時、甲斐絹のどてらを着て寝床の中に二つに折れ込んでいたその男であるのがあとで知れた。

※主人公、早月葉子が渡米する際に船内で会った、葉子の愛人である倉地の友人、正井が来ていたどてらの描写。のちに葉子は正井から脅迫され金をせびり取られるようになる。

[袖なし] 林不忘 『丹下左膳 乾雲坤竜の巻』(1927 昭和2)
銀糸を束ねた白髪、飛瀑(ひばく)を見るごとき白髯、茶紋付に紺無地甲斐絹の袖なしを重ねて、色光沢(つや)のいい長い顔をまっすぐに、両手を膝にきちんとすわっているところ、これで赤いちゃんちゃんこでも羽織れば、老いて愚に返った喜きの字の祝いのようで、まるで置き物かなんぞのように至極穏当な好々爺(こうこうや)としか見えない。
※名刀乾雲丸と坤竜丸を所持していた小野塚鉄斎の娘、弥生が、その名刀を打った刀工の末裔、得印兼光に出会ったときの描写。

[袖無着(ちゃんちゃんこ)] 林不忘 『つづれ烏羽玉(うばたま)』(作成年不詳 )
相良玄鶯院(さがらげんおういん)は、熊手を休めて腰をたたいた。ついでに鼠甲斐絹(ねずみかいき)の袖無着(ちゃんちゃんこ)の背を伸ばして、空を仰ぐ。刷毛で引いたような一抹の雲が、南風(みなみ)を受けて、うごくともなく流れている。
※もと御典医の蘭学者で、水戸藩尊王攘夷の志士を支援する相良玄鶯院が登場する場面での描写。

[寝衣(寝巻)] 落合直文 『甲斐絹』(1890 明治23)
ある日の夜はかり主人、園子をよび、一巻の甲斐絹をいたして
 こをたちてわか寝衣をつくりて
といふ。園子
 うけ玉はりはへり
とてうけとる

※主人公の園子が、就職の世話をしてくれる竹村早雄から、裁縫の教師になるための試しとして、寝衣(寝巻、寝間着)を作るよう手渡された生地として甲斐絹が登場する。しかし園子は誤って断ち切ってしまい、甲斐絹の上に数知れぬ涙をこぼしてしまう、という場面の描写。タイトルが『甲斐絹』そのものという特筆すべき重要な作品。しかし不思議なことに作中でも甲斐絹が大切な役割をもつにもかかわらず、本文中に「甲斐絹」の語はこの一度きりしか現れない。

 

※「パッチ」と「股引(ももひき)」は、長さの違いや素材の違いで区別されることもあるけれど同じものであったという説もあり、またその用法の区別は関東と関西で異なるようです。

[パッチ(股引)] 幸田露伴 『野道』(1928 昭和3)
他の二人も老人らしく似つこらしい打扮だが、(中略)鼠甲斐絹(ねずみかいき)のパッチで尻端折(しりはしょり)、薄いノメリの駒下駄(こまげた)穿きという姿(なり)も、妙な洒落からであって、後輩の自分が枯草色の半毛織の猟服――その頃銃猟をしていたので――のポケットに肩から吊った二合瓶を入れているのだけが、何だか野卑のようで一群に掛離れ過ぎて見えた。
※年配の友人3人に誘われて、おそらく作者自身と思われる主人公が野草をつまみに一杯楽しむ散歩に出かけた際、友人の一人(文中「鼠股引氏」)の服装を描写した文章。描写と友人の呼び名から、「パッチ」と「股引」が同等のものとして扱われていることが分る。

[パッチ(股引)] 三上於菟吉 『雪之丞変化』(1935 昭和10)
それが、済むと、浮いた浮いたと、太鼓持が、結城つむぎのじんじんばしょり、甲斐絹のパッチの辷(すべ)りもよく、手ぶり足ぶみおもしろく、踊り抜いて、歓笑湧くがごときところへ、
※主人公の雪之丞が、仇敵である長崎屋三郎兵衛を待ち受ける宴席で、座を盛り上げようと踊っている太鼓持の服装の描写。踊りの軽快さと、甲斐絹のすべりが良いことが関連づけられて表現されている点が興味深い。

[パッチ(股引)] 三遊亭圓朝 『政談月の鏡』(1892 明治25)
ドッシリした黒羅紗(くろらしゃ)の羽織に黒縮緬の宗十郎頭巾に紺甲斐絹(こんがいき)のパッチ尻端折(しりはしお)り、
※舞台は宝暦6(1756)年。父、清左衛門のため物乞いをする娘、お筆に大金を施した盗賊、月岡幸十郎の服装の描写。

 

[ドレス] リットン・ストレチー/片岡鉄兵訳 『エリザベスとエセックス』(1941 昭和16)
黒い甲斐絹(タフタ)をイタリア風に裁断したドレスが、広幅の黄金の帯で飾られ、開き(オープン)にした袖には、緋縁どりが施してあった。
※舞台は16世紀イギリス。エリザベス一世の胸のところで大きく切れ込みの入った衣装を見て、フランスの大使ド・メッスが驚いたときのドレスの描写(メッスのこのときの記録は史実として残されている)。作中では明らかに日本の絹織物ではないにもかかわらず、タフタ(平織り)の生地を甲斐絹と表現しているのが興味深い。

 

[脚絆] 三遊亭圓朝 『粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分)』(1888 明治21)
駕籠の脇に連添う一人の老女は、お高祖(こそ)頭巾を冠り、ふッくりと綿の這入りし深川鼠三ツ紋の羽織に、藍の子もち縞の小袖の両褄(りょうづま)を高く取って長襦袢を出し、其の頃ゆえ麻裏草履を結い附けに致しまして、鼠甲斐絹(ねずみがいき)の女脚半(おんなきゃはん)をかける世の中で、当今(たゞいま)ならば新橋の停車場(すてえしょん)からピーと云えば直(じき)に川崎まで往かれますが、其の頃は誠に不都合な世の中で、川崎まで往くのに、女の足では一晩泊りでございます。
※舞台は寛保年間(1741-44)の江戸。登場人物のひとり重助の宅に母娘の来客があり、その母親の服装を描写したもの。この作品では「女脚半」「女脚絆」という用語が登場するが、Google検索の結果を見るかぎり現在はその言葉は使われていないと思われる。

[脚絆] 三遊亭圓朝 『粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分)』(1888 明治21)
正「でげすがね、お松が若がって、余程(よっぽど)可笑しいんでさア、両褄(りょうづま)を取って白縮緬の褌(ふんどし)をピラツカせて、止せば宜(い)いのに鼠甲斐絹(ねずみがいき)の女脚絆を掛けて、白足袋に麻裏草履を結(ゆわ)い附けにして、馬が来ると怖いよーッて駈け出すんですが、馬の方で怖がってるんで、あのくらいな化物は有りませんや、本当に面白いんで」
※舞台は寛保年間(1741-44)の江戸。幇間の正孝が、吉原の年配の芸者、お松が若ぶっていると嘲笑する場面でその服装を描写したもの。細かいニュアンスは分からないが、若い女性なら似合うだろうけれども…、という装束として甲斐絹の脚絆が用いられているようだ。なお、この作品では別の人物について甲斐絹の脚絆の描写があった(上の項目参照)。

[脚絆] 三遊亭圓朝 『鹽原多助一代記』(作成年不詳 )
「はい御免なさい」
 と云いながら這入って来た婆アは、年頃は五十五六で、でっぷり肥り、頭を結髪(むすびがみ)にして、細かい飛白(かすり)の単衣に、黒鵞絨(くろびろうど)の帯を前にしめ、白縮緬のふんどしを長くしめ、鼠甲斐絹(ねずみがいき)の脚絆に、白足袋麻裏草履という姿(なり)ですから、五八はいろんな人が来るなアと呟やいて居ますと、

※舞台は1760年ころの江戸。娘のお梅の行方を捜しに来た、三田の三角の引手茶屋「あだや」のおかくという「婆ア」の服装を描写したもの。

[脚絆] 国枝史郎 『甲州鎮撫隊』(1938 昭和13)
悲痛といってもよいような、然ういう娘の声を聞いて、お力は改めて、相手をつくづくと見た、娘は十八九で、面長の富士額の初々しい顔の持主で、長旅でもつづけて来たのか、甲斐絹(かいき)の脚袢には、塵埃(ほこり)が滲にじんでいた。
※舞台は幕末の江戸。千駄ヶ谷で療養する新選組の沖田総司のもとを京都からはるばる訪ねてきた、総司かつての恋人、お千代の服装の描写。主人公の総司が心から愛するヒロインが、初めて登場する場面で身につけているものとして甲斐絹が用いられている。

[手甲、脚絆] 江見水蔭 『死剣と生縄』(1925 大正14)
旅装束何から何まで行き届かして、機嫌克(よ)くお鉄は送り出して呉れた。
鉄無地の道行(みちゆき)半合羽(はんがっぱ)、青羅紗の柄袋(つかぶくろ)、浅黄(あさぎ)甲斐絹の手甲脚半(てっこうきゃはん)、霰小紋(あられこもん)の初袷(はつあわせ)を裾短かに着て、袴は穿かず、鉄扇を手に持つばかり。斯うすると竜次郎の男振りは、一入(ひとしお)目立って光るのであった。

※舞台は江戸時代末期。生縄のお鉄という捕縛術に優れた女侠客のもとに囚われていた武士、磯貝竜次郎が、師匠の秋岡陣風斎に会いに江戸に行く許しを得たのち、お鉄が準備してくれた旅装束の描写。男振りがひとしお目立って光る、という装束のひとつに甲斐絹が用いられている。

[手甲、脚絆] 国枝史郎 『犬神娘』(1935 昭和10)
門口に近い柱に倚って、甲斐絹の手甲(てっこう)と脚絆とをつけ、水色の扱(しご)きで裾をからげた、三十かそれとも二十八、九歳か、それくらいに見える美しい女が、そう云ったのでございます。
・ ・ ・
と、どうでしょうそのご上人様の手先を、甲斐絹(かひき)の手甲の女の手が、ヒョイと握ったではございませんか。

※舞台は安政五年(1860)頃。西郷吉之助(のちの隆盛)と仲間たちが上人様を京都から薩摩へ護送する途中、上人様の籠に近づいてきた謎の女、お綱という犬神の娘の服装の描写。タイトル名にもなっている主役級の若く「美しい女」の装束として甲斐絹が用いられている。

[甲掛(女性)] 国枝史郎 『神秘昆虫館』(1940 昭和15)
「かしこまりましてございます」こう云ったのは松代である。道行(みちゆき)を着てその裾から、甲斐絹の甲掛(こうがけ)を見せている。武家の娘の旅姿で、歩き方なども上品にしている。
※舞台は天保十年(1841)頃。永世の蝶という宝物を求めて旅をする一行のうち、快盗「七福神組」の頭である「弁天の松代」が、武家の娘の旅姿をしている場面の服装の描写。松代がいかにも上品な武家の娘のように見える、という装束に甲斐絹が使われている。

 

[襟巻] 水野葉舟 『帰途』(作成年不詳 )
と、言うところに、顔の滑らかな青白い中年の男がはいって来た。白い甲斐絹の襟巻を首に巻きつけていた。
※主人公が上京する馬車の旅で、S村で最後に乗車してきた6人目の男の服装の描写。



[洋傘] 谷崎潤一郎 『秘密』(1911 明治44)
私はすっかり服装を改めて、対(つい)の大島の上にゴム引きの外套を纏い、ざぶん、ざぶんと、甲斐絹張りの洋傘に、滝の如くたたきつける雨の中を戸外(おもて)へ出た。
※上海への船上で知り合った謎の女「T女」に偶然再会し、誘われて翌日会いに行こうとする時の洋傘の描写。

[洋傘] 宮本百合子 『砂丘』(1913 大正2)
「ナニ、ほんの一寸、だけど、またれる身よりも待つ身の何とかってね……」
女は洋傘の甲斐絹のきれをよこに人指し指と、中指でシュシュとしごきながらふるいしれきったつまらないことを云った。
それで自分では出来したつもりで、かるいほほ笑みをのぼせて居る。

※主人公と待ち合わせていた女が持っていた洋傘の描写。

 

[座布団] 泉鏡太郎 『神鑿(しんさく)』(1909 明治42)
其時坐つて居た蒲団が、蒼味(あおみ)の甲斐絹で、成程濃い紫の縞があつたので、恰(あだか)も既に盤石の其の双六に対向(さしむか)ひに成つた気がして、夫婦は顔を見合はせて、思はず微笑えんだ。
※天然の岩が双六の目のようになった「双六谷」という場所を温泉宿の亭主に尋ねたところ、その時座っていた座蒲団(座布団)がちょうど双六のような縞だった、という場面での描写。

[蒲団] 直木三十五 『南国太平記』(1931 昭和6)
白い木綿の下蒲団の上に、甲斐絹の表をつけた木綿の上蒲団であった。その上へ、仰向きになって、眼を閉じた。幾度か枕を直してから、身動きもしなくなった。
※薩摩藩主、島津斉興の家老、調所広郷が服毒自殺をしようとして用意した蒲団の掛け蒲団の描写。

 

[袋] 若松賤子 『黄金機会』(1893 明治26)
疲れ果てるまで跳びまはり升(まし)たあとで、フト思ひつき、母に貰ふた甲斐絹の切で三ツの袋を拵らへに取り掛り升(まし)た。
・・・
かう聞くと共に私の眼めは涙で一杯になつて、例の袋をさぐる手先が見えぬ程でした、それ故父の顔も見ず甲斐絹(かひき)袋のまゝ渡し升と、父は妙なかほつきして暫しばらく其袋を眺ながめて居り升た。

※作者が十一歳の誕生日に、祖父からもらった小遣いをしまうのに作った袋の描写。

[信玄袋] 菊池寛 『貞操問答』(1934 昭和9)
圭子は、今朝判箱を取るために、用箪笥を開けたとき、甲斐絹のごく古風な信玄袋がはいっているのを、チラリと見た。あの中には、貯金の通帳がはいっているはず――あれをそっと持ち出して……。
※主人公、新子の姉、圭子が自分が主演となる舞台の資金が不足しているのに困り、母親の貯金通帳を物色している場面の描写。

 

[人形衣装] 宮本百合子 『悲しめる心』(1892 明治25)
父が京都の方から首人形を買って来て呉れたのをたった一つ「おちご」に結ったのをやった。紫の甲斐絹の着物をきせて大切にして居たけれ共時の立つままに忘れてどこへかなげやられて仕舞った。
※作者が15歳のときに5歳で亡くなった妹の華をしのび、かつて妹に渡した首人形を思い起こしている場面の描写。首人形は土などで作った首に竹串をさしたもので、衣装を着せる遊びなどに使われた。

 

[小裂] 金子みすゞ 『二つの小箱』(作成年不詳 )
紅絹(もみ)だの、繻子(しゆす)だの、甲斐絹(かひき)だの、
きれいな小裂(こぎれ)が箱いつぱい。
黒だの、白だの、みどりだの、なんきん玉が箱一ぱい。
それはみいんな私のよ。

※少女が空想している宝物の入った小箱の中身についての描写。甲斐絹が「きれいな小裂」のひとつとして登場する。

[縫物の生地] 有本芳水 『芳水詩集 赤い椿』(1914 大正3)
赤い椿の花が散る
縁先に出て縫物す
母が手先の針の色。
赤い椿の花びらと
紅(もみ)の甲斐絹のくれなゐと
折折動く白い手と……。

※椿の花が散る縁先で縫物をする母が持っている生地の描写。

[垢すり] 芥川龍之介 『戯作三昧』(1917 大正6)
老人は丁寧に上半身の垢を落してしまふと、止め桶の湯も浴びずに、今度は下半身を洗ひはじめた。が、黒い垢すりの甲斐絹(かひき)が何度となく上をこすつても、脂気の抜けた、小皺の多い皮膚からは、垢と云ふ程の垢も出て来ない。
※舞台は天保二年(1831年)の江戸。神田にある銭湯で体を洗う老人、滝沢馬琴の描写。


最後に、甲斐絹の具体的な布製品としての用途ではなく、作品中の演出装置として、甲斐絹がどんなイメージを担っていたかを少し紹介します。


①上等、立派、綺麗な甲斐絹のイメージ

ポジティブな演出として、登場人物の扮装や立場を引き立てるためなどに用いられたと思われる甲斐絹の例では、次のようなものが挙げられます。

石川啄木 『天鵞絨』(1908 明治41)
※以前よりも服装が立派になっていた髪師の「源助さん」
繪甲斐絹の裏をつけた羽織も、袷も、縞ではあるが絹布物(やはらかもの)で、角帶も立派、時計も立派

落合直文 『甲斐絹』(1890 明治23)
※お世話になっているご主人から預かった大切な甲斐絹
かの御召物はしま柄、地合、いと美麗なり

国枝史郎 『神秘昆虫館』(1940 昭和15)
※いかにも上品な武家の娘のように見える、という装束としての甲斐絹
道行を着てその裾から、甲斐絹の甲掛を見せている。武家の娘の旅姿で、歩き方なども上品にしている。

三遊亭圓朝 『粟田口霑笛竹(澤紫ゆかりの咲分)』(1888 明治21)
※若い女性なら似合うだろうけれども…、という装束としての甲斐絹の脚絆
止せば宜いのに鼠甲斐絹の女脚絆を掛けて、白足袋に麻裏草履を結い附けにして、

国枝史郎 『甲州鎮撫隊』(1938 昭和13)
※主人公の総司が心から愛するヒロインが、初めて登場する場面で身につけている甲斐絹
娘は十八九で、面長の富士額の初々しい顔の持主で、長旅でもつづけて来たのか、甲斐絹(かいき)の脚袢には、

江見水蔭 『死剣と生縄』(1925 大正14)
※男振りがひとしお目立って光る、という装束のひとつが甲斐絹
浅黄甲斐絹の手甲脚半( 中略 )斯うすると竜次郎の男振りは、一入(ひとしお)目立って光るのであった。

国枝史郎 『犬神娘』(1935 昭和10)
※主役級の若く「美しい女」の装束として甲斐絹
甲斐絹の手甲と脚絆とをつけ、( 中略 )美しい女が、そう云ったのでございます。

金子みすゞ 『二つの小箱』(作成年不詳 )
※「きれいな小裂」のひとつとして登場する甲斐絹
紅絹だの、繻子だの、甲斐絹だの / きれいな小裂が箱いつぱい。

②少しネガティブな甲斐絹のイメージ

登場人物があまりパッとしなかったり、あまり好ましくない印象であるときに、少しネガティブな演出としての甲斐絹が使われている例もありました。もしかしたら洋装化の時代に置いて行かれるイメージや、キザな成金のようなイメージが持たれていたとも考えられます。夏目漱石の虞美人草、有本芳水の詩では、甲斐絹自体というより、投げ掛けられた/ぬぎ捨てられた羽織という表現に生気のないイメージがあり、それと対照的なきらきらと光る/鮮やかな赤い色をした甲斐絹の取り合わせが、なにか退廃的な妙味を感じさせているという対比の演出といえるのかもしれません。

夏目漱石 『虞美人草』(1907 明治40)
※(古い時代の象徴?)病気の「井上先生」が着ようとする羽織の裏の甲斐絹
乏しき光線をきらきらと聚める。裏は鼠の甲斐絹である。

樋口一葉 『一葉日記』(1896 明治29)
※少々うさんくさい人物として描写される正直正太夫(別号斎藤緑雨)の甲斐絹
木綿がすりの羽織は着たれどうらは定めし甲斐絹なるべくや

有島武郎 『或る女』(1911 明治44)
※主人公、早月葉子をのちに脅迫し、金をせびり取る人物の衣装としての甲斐絹
興録のほかに三人いた。その中の一人は甲斐絹のどてらを着ていた

有本芳水 『芳水詩集 断章十七  秋の朝』(1914 大正3)
※秋の朝のさみしさを表現した詩のなかでの羽織の描写にある甲斐絹
秋の朝のさみしさ / ぬぎ捨てられた羽織の甲斐絹裏の赤い色が / ちくちくと眼にしむさみしさ


③滑りのよい甲斐絹のイメージ

これは文学的な演出というより、生地の物性としてのイメージといえそうですが、『丹下左膳  乾雲坤竜の巻』『雪之丞変化』では登場人物の行為を描写する小道具として扱われているのが興味深い事例です。『丹下左膳 日光の巻』では「百姓町人」が表立って絹を身につけられないけれど、裏に忍ばせているという様子が描かれています。

林不忘 『丹下左膳 乾雲坤竜の巻』(1927 昭和2)
※喧嘩の際にすばやくすべり落ちるように半纏の裏に張りこんでいる甲斐絹
するりとぬいだ甲斐絹うらの半纒を投網のようにかぶらせて、物をもいわずに組みついたのだった。

三上於菟吉 『雪之丞変化』(1935 昭和10)
※太鼓持の踊りの軽快さがパッチのすべりが良いことに関連づけられている甲斐絹
甲斐絹のパッチの辷りもよく、手ぶり足ぶみおもしろく、踊り抜いて、歓笑湧くがごときところへ、

林不忘 『丹下左膳 日光の巻』(1934 昭和9)
※殿様を出迎える庄屋たちの衣装の描写。絹の袴は履けないけれど、裏についているすべりのよい甲斐絹。
いくら庄屋でも、百姓町人は絹の袴は絶対にはけなかったもので、唐桟柄のまちの低い、裏にすべりのいいように黒の甲斐絹か何かついている、一同あれをはいています


以上、様々な観点から甲斐絹の用途についてお伝えしました。

次回はまた別の角度から文学の中の甲斐絹をご紹介します。どうぞお楽しみに。

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(五十嵐)