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2014年1月17日金曜日

甲斐絹ミュージアムより #10  「白桜十字詩」

[1] E018 絵甲斐絹
西暦 1913 年[ 大正 2 年] 南都留郡

http://www.pref.yamanashi.jp/kaiki/kaiki_museum/kaiki-sample/e/e018.htm



桜の木に掘られた文字。

これは漢詩で、

「天莫空勾践 時非無范蠡」


と書かれています。


「天、勾践(こうせん)を空しうすること莫れ、時に范蠡(はんれい)の無きにしも非ず」




これは、 『太平記』にも記された、「白桜十字詩」と呼ばれる故事を表しています。


詩の中にある「勾践(こうせん)」「范蠡(はんれい)」というのは、
どちらも古代中国の人物で、
勾践は越の王、范蠡はその忠臣です。
范蠡は越王勾践を助けて呉を滅ぼすことに貢献したとされています。

ちなみに、勾践は苦境にあるとき、

部屋に肝を吊るして毎日それを舐め、その苦さを味わうことで
呉に対する復讐心を新たにしたといいます。
そう、四字熟語、「臥薪嘗胆」のモデルになった人でもあります。


さて、この漢詩を桜の木に堀ったのは、
児島高徳(こじまたかのり)という、鎌倉末~南北朝の武将でした。


後醍醐天皇に使えた児島高徳は、

隠岐に流される後醍醐天皇を奪還しようと行動しますが、
それが果たせず、断念したときに、

かたわらにあった桜の木に、夜の間にこの漢詩を堀ったとされています。


「天勾践(こうせん)を空しうすること莫れ、時に范蠡(はんれい)の無きにしも非ず」


この漢詩をとおして彼が訴えたのは、

「天は、後醍醐天皇を見捨てません。
 かならずや勾践(こうせん)にとっての范蠡(はんれい)のような者を使わして
  お助けするでしょう」


ということだったようです(だいぶ意訳が入っています)。


後醍醐天皇の奪還を防ごうとする兵士達は、

のちに桜の木に見つけたこの詩の内容が分からず、
ただ後醍醐天皇だけがその意味を知ることができたと言われています。


しかし、昔の日本人は、
こうした歴史故事に対する造詣が深いですね!





[2] E146 絵甲斐絹
西暦 1913 年[ 大正 2 年] 南都留郡
http://www.pref.yamanashi.jp/kaiki/kaiki_museum/kaiki-sample/e/e146.htm



この甲斐絹も、最初のものと同じく、 「白桜十字詩」を題材にしています。

・桜の木
・「天莫」の文字、(漢詩の最初の2文字)
・夜の風景、(
児島高徳が桜の木に漢詩を堀ったのは夜

この3つがあれば、この生地を見た人は
 
「白桜十字詩」の故事を思い浮かべることができたということですね。

 
少ない情報の中から、発信者の意図を読み取る観察力、
それを支えるバックボーンとしての文化的な知識。

この両方が求められる知的ゲームを
上手くこなすことが格好良く、
またそれをファッションに織りこんでいる日本の文化。
その層の厚さ、奥の深さを感じる甲斐絹だと思います。


毎回のように書きますが、
裏地にここまで文化的な意味を見出した人たちがいたこと、
ほんとに驚かされますね!


今回は、どちらも1913年。

101年前の甲斐絹でした。

次回もお楽しみに!



(五十嵐)