2013年3月8日(金)、みやしん(株)の宮本英治社長を招き、セミナーを開催しました。
日本のファッション産業の最先端を支え続けた伝説の機屋さん「みやしん」と宮本英治社長については、こちらの記事でもご説明していますので、ぜひご覧ください。
まずはセミナーに先駆けて、宮本社長さんを産地の機屋さんにお連れしました。日本のファッション産業の最先端を支え続けた伝説の機屋さん「みやしん」と宮本英治社長については、こちらの記事でもご説明していますので、ぜひご覧ください。
1社目、宮本社長さんからのリクエストで訪問したのは、西桂の㈱槙田商店。創業1866年、日本を代表する洋傘地メーカーであり、服地にも力を入れている地域のリーダー的存在です。
写真は本社2階の縫製工場で、上は光に透かしての検反作業。
下は縫製作業中の傘です。「△」型の生地をつなげて丸くなるようにまず縫製してから、骨に取り付けます。
3階のショールームで見せていただいたのは、「1866(イチハチロクロク)」と名付けられた傘。生地を二層に張る蛙張り(カワズバリ)という「匠の技」と、内側の目立たない部分の生地に瀟洒なテキスタイルを使い贅を尽す「粋という文化」のコラボレーション。
1866年は槙田商店創業の年。
この傘はその数字を冠した槙田商店のフラッグシップモデルです。
猪?
服地を織る工場で織機を見学する宮本社長(中央)。
織機の重要なパーツ「筬(オサ)」にも、「1866(イチハチロクロク)」発見!
工場のあとは企画室で看板サイズの巨大ジャカード生地、19世紀の貴重な生地見本を見学し、次の機屋さん、㈲テンジンへ向かいます。
テンジンさんでは、こだわりのリネン生地を織るために、あえて古い織機を購入してスロープロダクツならではの良さを追求しています。のちほどセミナーでも触れられますが、ジャカードからドビーに移行して高付加価値な織物を織るというのは、みやしんさんと同様の戦略です。
上の写真は、ドビー織機用の紋紙(をクローズアップで撮影したもの)。穴のあるなしで織物組織のパターン情報を織機に伝える媒体です。むかしのコンピュータのパンチカードと同じ、というよりむしろ織機の方がコンピュータの祖先と言われています。
そしてついにセミナー会場、ナノリウムへ。
今回、特別に会場として使わせていただくことができました。
今回、特別に会場として使わせていただくことができました。
大勢の受講者が森の中のギャラリーに集結。
セミナーは、「みやしん(株)」が日本の最先端のファッションを支え続けた織物メーカーとしての歴史を終えた経緯からスタート。
「みやしんで培ってきた織物をなんとかして未来へ継承させなくては、という思い」
と、
「このまま続けていたら、築いてきたことを後世に残すことも難しくなるかもしれない」
というジレンマの中で、
学校法人文化学園の「文化ファッションテキスタイル研究所」に生まれ変わるという決断をし、
「ものづくり」から、「人づくり」へのシフトをされた経緯が語られました。
「産地から若い人が、研究所に来た時は素人だけれど、
帰ったらものづくりも、ビジネスも先代社長よりもよく出来るようになっている。
そんなことができたら…」
こう言って目を細める宮本さん。
今後は、文化学園の学生だけでなく、全国の織物産地の若い後継者に技術を伝える
人づくりの場を作れたら、という夢を語ってくれました。
1970年代、もともと男性用着物地を作るメーカーだったみやしん(株)に戻ってきた
当時の宮本さんは、そのジャンルの未来に不安を感じ、新しい道を模索することを決意。
そして自社の設備と同様のものを持つ世界中の工場を調べ上げた結果、
「一番織りづらく、よそでやっていない麻を使う」という決断をします。
その時点の方向付けから、すでに「みやしん」らしさが醸し出されているようです。
そしてしかも、当時市場になかった「冬物のリネン生地」の開発をスタート。
経糸をリネン、緯糸に綿やウール、シルクなど異素材を用いたり、
多重織にして嵩高にしたり、ウールを縮絨させてみたりと、様々に挑戦するなかで、
よそにはできない技術を蓄積させて行ったそうです。
もともと織物の経験のなかった宮本さんは、工業高校で使われた「織物」という教科書を先生に、
独学で織物を学んだとのこと。ひと言でそうおっしゃいますが、そう簡単なことではないはず…!
そんな宮本さんの伝説的な歩みが、セミナー受講者を前に淡々と語られました。
「織物の世界にはまだまだ可能性がある。
業界はたしかに厳しい、厳しいと言われ、どこでも業者が減ってきていて
今後どうするのか、ということがよく言われる。
しかし作り方や販売方法を工夫すれば、これからまだまだ可能性がある!」
宮本さんはそう断言。
ではどう工夫したらよいのか?
「一番大事なことは差別化すること」
「今後は、売り場は売る商品を自分で作る、逆に作る人は作った商品を自分で直接売る。そういう流れが求められているのではないか」
そんなアドバイスをもらい、また宮本さんが持参したみやしんの商品を回覧しながらのレクチャーも。
ここでそのいくつかを写真でご紹介します。
当時の宮本さんは、そのジャンルの未来に不安を感じ、新しい道を模索することを決意。
そして自社の設備と同様のものを持つ世界中の工場を調べ上げた結果、
「一番織りづらく、よそでやっていない麻を使う」という決断をします。
その時点の方向付けから、すでに「みやしん」らしさが醸し出されているようです。
そしてしかも、当時市場になかった「冬物のリネン生地」の開発をスタート。
経糸をリネン、緯糸に綿やウール、シルクなど異素材を用いたり、
多重織にして嵩高にしたり、ウールを縮絨させてみたりと、様々に挑戦するなかで、
よそにはできない技術を蓄積させて行ったそうです。
もともと織物の経験のなかった宮本さんは、工業高校で使われた「織物」という教科書を先生に、
独学で織物を学んだとのこと。ひと言でそうおっしゃいますが、そう簡単なことではないはず…!
そんな宮本さんの伝説的な歩みが、セミナー受講者を前に淡々と語られました。
「織物の世界にはまだまだ可能性がある。
業界はたしかに厳しい、厳しいと言われ、どこでも業者が減ってきていて
今後どうするのか、ということがよく言われる。
しかし作り方や販売方法を工夫すれば、これからまだまだ可能性がある!」
宮本さんはそう断言。
ではどう工夫したらよいのか?
「一番大事なことは差別化すること」
「今後は、売り場は売る商品を自分で作る、逆に作る人は作った商品を自分で直接売る。そういう流れが求められているのではないか」
そんなアドバイスをもらい、また宮本さんが持参したみやしんの商品を回覧しながらのレクチャーも。
ここでそのいくつかを写真でご紹介します。
セミナーでは、まとめきれないくらい多くの示唆に富んだお話しが伺えました。
そのうち幾つかを抜粋してご紹介します。
・社内での人材育成について
「たて糸を多めに発注して試作ができるようにするなど、
できるだけ作るチャンスは与えるようにしていた。
そのチャンスを生かすかどうかは本人次第。
経営者としてチャンスを与える場を作るようにできればと思っていた」
・元社員のSさんが語った宮本社長の印象に残った言葉
「モノを作るには感性よりも、技術と理論が先だ」
・「どんな消費者を見て商品開発を考えていけばよいのか?」という質問に対して
「一番分かりやすいのは、上代がある程度高くて、いい素材を使っているブランドの消費者を見ること」
・展示中の「富士山テキスタイルプロジェクト」の作品をついて
「まずモノづくりについては、いい悪い、というのは、見方によって変わるもの。
売れる売れないという視点がすべてでもない。
私が大事だと思うのは、集団のなかに若い力をどんどん取り込んで、チャレンジをすること。
売れる結果を期待しちゃいけない。
若い人を入れて若い人と一緒にやることで風を吹き込んでもらうこと、
産地の次の人材になっていってもらうこと。その効果がすごく大きい」
・「見ざる、触れざる、集めざる」
「他の人の作品を、できるだけ見ないようにしよう、触れないようにしよう、集めないようにしよう。常に自分は人の影響を受けやすい人間だと自分に言い聞かせて、
できるだけ見たり触ったり集めたりしないで、自分自身で作っていく。
そうすれば、誰かに『コピーじゃないか』って言われても、平然としていられる。
私は何も参考にしないで、自分の頭で作りだしたんだと言える」
・伝統と革新について
「伝統というのはそれができたときには、たくさんの職人さんたちの
革新の連続で出来上がった。
新しいものを作り続けようという革新を継続する気持ちは、
伝統それ自体よりも絶対に重いと思う。
作り続ければ、それがいつか伝統になるかもしれない。
伝統の重さに負けないで革新の連続を、続けて行こうと若い人たちに言いたい」
盛りだくさんの内容でお伝えできないところも沢山ありますが、このあたりで。
宮本社長、そしてセミナーに来ていただいた皆様、ありがとうございました!
(文:五十嵐 写真:高須賀)
(文:五十嵐 写真:高須賀)