2013年10月31日木曜日

甲斐絹ミュージアムより #7 「今週の絵甲斐絹②/曾我兄弟の仇討ち、富士の巻狩ほか」

ヤマナシ織物産地の至宝、明治~昭和初期の絵甲斐絹を紹介する
「今週の絵甲斐絹」、第2回!

さっそく ご覧頂きましょう。



甲斐絹ミュージアム
E113 絵甲斐絹
西暦 1913 年[ 大正 2 年] 南都留郡
http://www.pref.yamanashi.jp/kaiki/kaiki_museum/kaiki-sample/e/e113.htm


今からちょうど100年前の甲斐絹です。
 

描かれているのは、蝶、千鳥、
そして黒いボーダーの中にある家の形は、家紋「庵に木瓜」。
鎌倉初期の武将、工藤祐経の家紋です。

これは実は、日本三大仇討物語のひとつ、「曾我兄弟の仇討ち」を表した図案です。
 

蝶と千鳥は、工藤祐経に父を殺された兄弟、曾我祐成・時致を表しています。

ここで曾我兄弟の仇討ちのアウトラインをご紹介。




簡単に書くと、幼少時に父を殺された兄弟が、苦難のなか成長して
ついに父の仇である工藤祐経を斃す、というお話です。(簡単すぎ…)

仇の工藤祐経が源頼朝の寵臣であり、

曾我兄弟の弟は北条時政を頼ってその支援を受けたといいますので、
背景には北条氏の陰謀説もあったりするようです。

そして、仇討の舞台となったのは富士山の裾野でした。
建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催します。
巻狩は、いまで言うと軍事演習であり、
時の政権、平氏への示威行為でもあったそうです。
ともかく、富士山とも縁のあるお話でした。

この仇討物語は、後に『曾我物語』としてまとめられ、
江戸時代には歌舞伎などの演目として人気を博したとのこと。
赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちと併せて、
日本三大仇討ちの一つとされています。

 

さて甲斐絹を見ると、明るいボーダーに二人の兄弟、暗転したボーダーに工藤家の家紋があり、
物語のなかで仇討が全うされたことを明・暗の対比でドラマチックに表現しています。
 

この裏地を見た人には「曾我兄弟の仇討ち」と伝わったのかと思うと、
100年前の日本人の文化度の高さも伺えます。
 

このように物語や文学が絵柄に込められているのも、絵甲斐絹の醍醐味です。










E034 絵甲斐絹
西暦 1910 年[ 明治 43 年] 南都留郡
http://www.pref.yamanashi.jp/kaiki/kaiki_museum/kaiki-sample/e/e034.htm


2枚目も、「曾我兄弟の仇討」をテーマにした絵甲斐絹です。
 
同じように、描かれているのは、蝶、千鳥、家紋「庵に木瓜」。
 
蝶と千鳥はその身体に炎をまとって家紋「庵に木瓜」に襲い掛かり、壊してしまっています。
 
曾我祐成・時致と、工藤祐経を表すモチーフが、より大きく、よりダイナミックに描かれていますが、
仇討の瞬間を、これほど象徴的に描いた図案も珍しいのではないでしょうか?
 
この作品、じつは前回紹介した「曾我兄弟の仇討」の、
3年前(いまから103年前)に作られたものなのです。
 
3年がたつ間に、この直截的で荒々しい表現から、ソフィスティケートされて
前回のような、より暗喩的な明暗の表現に変わっていったことが、
とても面白いと思います。

 




甲斐絹ミュージアム
E157 絵甲斐絹
西暦 1910 年[ 明治 43 年] 南都留郡
http://www.pref.yamanashi.jp/kaiki/kaiki_museum/kaiki-sample/e/e157.htm

建久4年(1193年)5月、
前年に征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いた源頼朝が富士山のすそ野で行った軍事演習、
「富士の巻狩り」を題材にした甲斐絹です。

富士の巻狩りの3日目、突然手負いのイノシシが暴れ出し、
源頼朝に向かって突進するということがあったそうです。
すると頼朝のそばに控えていた新田四郎忠常(仁田とも)が馬に乗って駆け寄り、

『不甲斐なきかな、おのおの方』

と叫んで、猪に擦れ違いざまに後ろ向きに飛び移り、尻尾をつかんだ、とされています。

この絵甲斐絹で描かれているのは、まさにその瞬間です。
富士山を背景にしたイノシシ退治の様子が、
素朴ながら動きのある生き生きとした筆致で描かれています。


実は、これまで2枚つづけて紹介した「曾我兄弟の仇討」の3つ目にもあたります。
曾我兄弟による工藤祐経への仇討は、この巻狩りの最後の夜、5月28日に果たされたそうです。

甲斐絹にはその仇討の様子が直接描かれているわけではありませんが、
仇討を果たしたあと、曾我兄弟の十郎祐成(兄)は、
まさにこのイノシシ退治をした新田四郎忠常によって討たれています。
弟の五郎時致については、源頼朝は助命も考えたけれど、
工藤祐経の遺児に請われてやはり命を落としたということです。


余談ですが、

富士山が世界文化遺産に登録される何年も前のこと。

富士山にちなんだこの甲斐絹を題材に、
バンダナをデザインさせてもらったことがありました。
山梨県の世界文化遺産推進課のリクエストで作られたノベルティグッズです。

富士山が、富士の巻狩りのような何百年も前から芸術の題材になってきた事件の
舞台にもなっていたこと、そしてそれが山梨県の織物を代表する
甲斐絹として織られたことを表現しました。
それがこちらです。















(五十嵐)